あぶらむ物語Ⅱ

「あぶらむ物語」が出版されてから11年、続編の執筆が始まりました。

このページに連載していきます。感想もお待ちしています。


 

  ゆっくり、もっとゆっくり

  立教学院チャペルニュース 1984年10月25日発行より転載

 

 菜園トマトの一人言

  立教学院チャペルニュース 1985年9月25日発行より転載

 


 

 痛み経ること

  立教学院チャペルニュース 1983年3月25日発行より転載

 

「先立って在るもの」への問い -カトマンドウの街で思ったこと-

  立教学院チャペルニュース 1984年1月25日発行より転載

 


6.韓国へ ~どうしても訪れることが出来なかった遠い近国

 199710月、私は初めて隣国韓国を訪ねた。(訪ねることができるようになったといった方が自分の気持ちに副う) その年の6月、当時日本聖公会中部教区司祭(現教区主教)渋沢一郎師が大韓聖公会ソウル教区の司祭達4,5人を連れあぶらむにやって来た。会議、会議の連続で皆げっそりと疲れた顔をしていたが、飛騨地の空気が身心にあったのかみるみる元気になった。 

 

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5.ネパールへ ~岩村昇ドクターの人誑し名人と一食献金

 

<岩村ドクターという人>

私は「誑す(たらす)とか、誑し込む」とかといった言葉は好きではない。しかし適当な言葉が見つからない。「騙す(だます)」といえばもっと悪くなる。岩村昇ドクターは良い意味での人誑しの名人だった。ドクターにうまく乗せられて嫌な思いをした人は一人もいなく、万人が誑し込まれて心より感謝している偉大にして不思議な魅力をもったメディカルドクターだった。

 

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<沖縄からはじまったフィリピン>

フィリピンへの道は沖縄から始まった。その夜のことは、45年ほど経った今でもはっきりと憶えている。

 

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 1968年2月、私は「波之上丸」という老朽船に乗って沖縄にある「愛楽園」というハンセン病療養所を訪ねた。どのように生きていけばよいのか、ワラにもすがるような思いであった。22才になる春だった。

 

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 「私は過去、室永少尉こと室永巌の妻でございました。」私はこれまでの人生で、これほど強激な手紙の書き出しは知らない。

 

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 19才か20才のころだったと思う。夜になると新宿伊勢丹デパートの側で「辻占い」をしていた女占い師がいた。後になってわかったことは「新宿の母」と呼ばれた名占い師だった。

 

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