チャペルニュースの中に見る私 Part2

  [1980年~1982年]

 


 

 

<スラムのキリスト者たち -主の復活を信じて-> 

立教学院チャペルニュース 1980325日発行より転載

 

 

 チャペルニュースの原稿をかかえたままフィリピンにきた。わずか四時間の飛行の後、こうも世界が違うものなのか、幾度きても変な気持になる。

 この国の国民的英雄といえばホセ・リサール、19世紀末スペインの圧政に抵抗し処刑されていった民族独立の父。どんな寒村にも彼の像がたっている。

 「私は、我が故国の上に輝き出づる暁を見ずに死ぬ。暁を見ることのできる諸君よ、君たちはそれを歓び迎えよ。そして、夜の間に斃(たお)れた人びとのことを、決して忘れるな!」(「ノリ・メ・タンヘレ」イライアスより)

 

 私はリサールのこの言葉が好きだ。今ある我々の生命が幾多の苦しみや犠牲の果てにあるか、また人間の真の豊かさはそのような思想と生き方の中にはじめて実現することを語っているように思うからである。我々に先立って逝った一つの生命をまたその苦悩を大切にできない生き方の中には、豊かさは生まれることはない。そこから出てくるものは自分だけ腹一杯満足し他のことはかえりみない、きわめて自己中心的な生き方であろう。

 しかし、このような偉大な思想家を生んだフィリピンは貧しく、飢えている。神学生と地元活動家の案内で、日本資本によってつくられた漁港ナボタスを訪ずねた。日本漁業のための東南アジア基地である。そのため、住民は二度強制立退きをくわされた。現在、施設拡張のため埋立が行われており、埋立用のゴミの悪臭の中で必死に生きている人々、そして三度目の立退き命令が近いうちに出るとのこと。また、自らの漁業権も奪われ、操業するのに日本の会社の許可をもらわなければならないとのことだった。このような國策と利権がらみの中で、民衆の貧しさは目をおうばかりである。

 

 この国では、数%の者が富の90%を支配しているといわれている。高級車ベンツが一家に3台もあり、高い塀と武装した私兵をかこっている家、他方、軍隊に守られながら破壊作業が行なわれているスラム街トンドの光景が、何かこの国を象徴しているように思えた。私にはこの国の貧困は、きわめて人災的なもののように思えてならない。為政者の中に「夜の間に斃れた人々のことを決して忘れるな!」というリサールの最後のさけびが良心として少しでも響くことを願わずにはいられない。

 しかし、多くの人々は我々に先立って逝った人に思いすることはない。それはこの国だけではなく、我国も同じであろう。この国の貧しさを見ていると。今ある我々の生命は多くの犠牲の果てにあることを知らしめて行くことが、教育者の大きな使命であるように思えてならない。

 

 フィリピンは戒厳令下、この下にあってはいかなる活動も許されない。スラム街トンドの活動家達も沢山刑務所にぶち込まれている。しかし、この不正と貧困の中にあって勇気ある人々は、暁を求め巨大な相手に向って命をかけて闘いをいどんでいる。その多くはキリスト・イエスの復活を信じている人々だ。トンドの活動家Mさんの家にあった、テープとつり糸でつなぎあわせてあった壊れた十字架を忘れることができない。

 

 4月6日、復活日。自分に課せられた現実と真剣に闘っている者にしか「復活」のリアリティーはわからないように思った。そしてこの自分はどちらに属しているのか、マニラの貧民街で必死に生きる人々を見て深く考えさせられている。

 

 

 


 

 

<新しき年を迎えて> 

立教学院チャペルニュース 1981125日発行より転載

 

 

 美しい響きが絶えて久しいチャペルのパイプオルガン、先年パリで客死された森有正先生もこのオルガンを愛された一人という。真夏にショートパンツとランニング姿で汗だくになりながら弾いておられたと聞く。そのオルガンも再建に向けて第一歩が踏み出されたこと、チャペルに集う者にとって大きな喜びとなるにちがいない。

 

 その森先生が、「経験」と「体験」ということで次のように書いている、「私の生活の中にある出会いがあって、それが人であろうと事件であろうと、その出会いが私の中に新しい生活の次元を開いて行く、そして生活の意味自体が変化して行く。それを私は『経験』と呼ぶのであって、記憶の中にただ刻みつけられ、年月とともに消磨して行くもの、あるいは自分の生活の一部面の参考となるに止まって、そこに新しい次元を展くに到らないもの、それを私は『体験』と呼ぶのである」。

 

 終戦の年に生まれた私は戦争なんて知らない。しかし、沖縄・フィリピンとどういうわけか戦禍の傷が生々しく今も残る土地ばかりに関わるようになってきた。その地に生きる人々との交わりが深くなればなるほど、「戦争とは何か」ということを考えさせられる。何故なら、彼らの生活の中にあの戦争が「経験」として今も息づいているからである。

 一方、重税、防衛費増額、徴兵論議、靖国法案など、あの出来事に連なるような事ばかりが私たちの周囲に満ちてきた。人々は被爆の傷さえも「体験化」しようとしているのだろうか。一つの出来事を経験にして行く力と単なる体験にして行く力、その違いは一体何なのだろうか。

 

 ヨハネ伝8章31節以下のイエスと彼を信じたユダヤ人たちとのやりとりは興味深い。イエスはいう、「あなたがたは私を殺そうとしている。私の言葉が、あなたがたの内に根をおろしていないからである」と。

 イエスの言葉が私たちの内に「根をおろす」ということはどのような事なのだろうか。「根をおろす」と訳されるこの語は、「(他の人のために)場所をあける、前進(成長)する、余地をつくる」などの意味をもっている。英訳のfinds no room in you は原意をよく表わしている。「根づく」ということは、人間的思いをもって神の言葉の前進を妨げないこと、神に自分を明け渡すことではなかろうか。ヨハネ同章には、神の言葉の支配に必死になって抵抗している人間の姿、神の言葉、業と人間のそれとの激しい闘いのドラマが鮮やかに揃き出されている。「どうしてそんなことがあり得ましょうか。私にはまだ夫がありませんのに」、「私は主のはしためです、お言葉どおりこの身になりますように」という受胎告知のマリヤの言葉が、神の言葉への「根づき」をよく表わしている。

 

 一つの出来事が「経験」となるか「体験」となるか。その決定的質の違いは、私たちがその出来事を通して神の語りかけを聴きとり、神の言葉に支配されて生きて行くのか、あるいは自分の思いに囚われたまま単なる一つの出来事にして生きて行くかの違いのように思われる。私たちが人間的思いに支配されているかぎり、たとえどんなに大きな歴史的・民族的犠牲を払ったとしても、やがてその出来事は風化し、再び同じ道をたどるように思えて仕方がない。

 

 新しい年を迎えた。過し年月の出来事を私たちは明日に向け、どのように繋げようとしているのだろうか。私の思いではなく、神の言葉によって生きたいものである。

 

 

 


 

 

<たった一杯のコーヒーで> 

立教学院チャペルニュース 1982125日発行より転載

 

 

 82年の元旦をヒマラヤの国ネパールで迎えた。インド国境にほど近いネパール穀倉地帯の町チトワンにある農場で、我々数人の日本人だけで正月を迎える準倆をした。持参した餅と、地酒ロキシーのお屠蘇で新年を祝った。

 

 日本キリスト教海外医療協力会派遣医師岩村昇ドクターは、ネパールにおける20年余の働きを終え一昨年帰国された。「子供に結核予防のBCGを注射したら桔核になった。栄養不良で基礎抗体ができていなかったからである」との報告は、ドクターのネパールにおける働きの厳しさと共に、同国の現状を端的に語り示している。我々も知識としては理解していたものの、現状を前にして立たずむことがしばしばあった。

 

 周辺農家の子供達の髪毛が赤茶けていた。「トーモロコシのようだね。昔、西洋人のことをケトウーと呼んだのは、毛がトーモロコシのようだったから」と、いいかげんな会話をしていた我々。しかし、彼らの毛が赤茶けているのは、幼児期の栄養失調による脱色現象であることを知って、自分たちのいいかげんさを恥じる始末であった。穀倉地帯にしてこの様なのだから、山岳地帯の生活の厳しさは我々の想像を絶するものがあると思う。

 

岩村ドクターはネパールを離れるにあたり、同国の疾病、ことに結核撲滅のためには食生活の向上が必要であることを痛感され、その第一手段として農業普及および農業技術の改善等を目的とした、「チトワン総合農業開発プロジェクト」を立案された。同地区での農場経営を通して、それ自体の自立とともに、それによる収益で現地労働者を雇い、人材の育成をはかる。また、巡回相談、在来農法の研究、農機具の改良、研修の引き受けなど、近隣農家へのサーヴィスと普及を推進して行く。そしてまた、そこをネパールと日本の人々の交流の場として、日本の多くの若者がそこを足場にして、アジアの中における日本の在り方を考え直す拠点となることを同計画はあわせ願っている。

 

昨年よりスタートしたこのプロジェクトに、日本聖公会信徒佐藤寛君が農業スタッフとして参加することになった。我々聖公会及び立教大生有志はチトワン計画を支援し、向う5年間佐藤君をネパールへ送ることを決意し、年間5百万円を目標に募金を開始した。

 年額5百万、それを5年間継続するということは大きな冒険であった。我々世話人は「一食献金」を呼びかけた。それは一週に一食を抜いて捧げることです。特に、今アジアが直面する大きな問題は飢えです。食糧の三分の一が残飯とし捨てられている日本の現状の中で、私たちが一食を抜くことによりささやかな飢を体験することは、アジアの人々のかかえる問題をわずかながらも肌で感じることであり、彼らの問題をより身近なものとすることができることを願った。

 

 この運動を開始して8ヶ月余、協力者が3百名を超え、目標額達成が確実となった。それは奇蹟のように思われる。一人が一週250円を捧げる。その額は我々が日常何げなく使い捨てている額である。しかし、それを「捧げる」という行為においてこれだけの仕事が出来るのである。

 そしてそれは金の問題だけではない。一つの具体的運動は多くのものに橋をかけて行く。キリスト者とそうでない人々。学校と教会、教会と社会、そして日本とアジア、それらに橋をかけ二つのものを少しづつ結びつけて行くのである。

 

 農場滞在中、近隣農民がモミを交換にきていた。彼らの命である稲の品種を変えてみようというのである。私は嬉しかった。

 

 

 


 

 

<主よ、日用の糧を> 

立教学院チャペルニュース 1982625日発行より転載

 

 

 先日、ある人の招待で、著名なシェフのフランス料理を口にした。ビーフーストロガノフ、ムール貝プロワンス風など。始めてロにするようなものばかり。エンゲル系数60%の家主の私は、つい勘定書のことが気になり、美味な料理も喉につかえがちだった。この正月、ネパールの山中で食糧もなく、行きずりのネワール族の貧しい家で世話になり、ごちそうの煎り豆をボリボリかんで腹を満した記憶も生々しい。美味な料理と煎り豆だけの世界、あまりの落差の激しさに心の安定を欠いてしまった。

 

 私の中で言い争いが起っていた。「アジアの人々の苦しさの一端に触れた者が、よくもまァこんな大それたものをロにすることができるなァ。お前のアジアへの関心なんてプチブル的だ」。「だからといって日本で豆とイモだけを食べて生きるほど俺は強くはない。そうなると十分に食べれるということそれ自体が罪悪となる。たまにはこんな一時も赦されてよいのではないか」と、弁明に務めているもう一人の自分。「両方の世界を知っていることが、大切なのではないの」というホストの声に、私の中の言いあいは一時中断、その夜はせっかくのごちそうを堪能することに決めた。

 

 自分が生をうけている現実と、垣間見てきたアジアの人々の生活との落差に少なからず揺れ動いている私は、あちこちで訪ずねたアジアの人々の話をする機会を持つ。物質的貧しさの中にあって、キラキラ輝く彼らの心の豊かさを話す。意外、というような反応が返ってくる。そして彼らの十分に食べれない現実に触れると、「あァ、日本に生まれてよかった。なんと日本は恵まれているのだろう」と、決ったようにこんな声が返ってくる。そんな声を聞くと、飢え苦しむアジアの人々のことが忘れ去られたような気がし、寂しい思いがする。

 

 飽食と飢え、世界はこの二極分解を激しく押し進めている。そして前者に属する私たち、その私たちが自らの豊かさの証明のために苦しむ人々を用いているとすれば、それほどの心の荒廃はないだろう。また、自分の属する世界にだけ目を向け、他者の痛みや苦しみから目をそらすところから、一体どのようなものが生まれてくるだろうか。そこから生まれてくるものはきっと歪なものにちがいない。

 

 ネパールの帰路、インドを訪ずね、マザー・テレサの働き場を見てきた。カルカッタのあまりもの雑踏と、鼻をつきあげるような汚臭に疲れ切っていた私にとって、純白に青線の入ったサリーのシスター達の姿は美しく、優しかった。マザーの一つ一つの言葉に、錆ついた私たちの心が揺り動されるが、それと共に、彼女達があのカルカッタの貧しい人々と同じ食べものを毎日口にしているという事実に圧倒される。他者への真の共感としての優しさは、悲しみや苦しみの極みにまで歩みを共にすることによって培われてゆく世界なのであろう。そこまでしないと理解できない世界があることを、マザーは語っているのだろう。彼女の言葉を支えるところの生活の厳しさに触れ、深く考えさせられながら帰ってきた。

 

 しかし、私の生活は以前と比べ、あまり変化していない。だが、せめて食べれるという事実の前に、もっと謙虚であろうと思っている。そして、食べれない彼らの現実から目をそらすことなく、少なからず心揺れ動かされながら生きてゆく。「我らの日用の糧を今日も与え給え」、主の祈りを彼らと共に日々実感してゆくこと、今の私にはそれしかできない。