はじめに 女占い師の託宣

 

 19才か20才のころだったと思う。夜になると新宿伊勢丹デパートの側で「辻占い」をしていた女占い師がいた。後になってわかったことは「新宿の母」と呼ばれた名占い師だった。

 

 1964年東京オリンピックの年、東京のホテル学校で学んでいた私はハワイへの研修旅行へ行く機会を得た。その時ハワイで知り合ったのが私の人生を決定づけた人、服部春美という人だった。彼女の家は代々の漢文学者の家系だった。お父さんは有名な作曲家レイモンド服部であり慶応大学の漢文科卒業、ずっーと代をさかのぼれば1860年勝海舟らが咸臨丸でアメリカに渡った時、幕府の漢文御用学者であった先祖が副大使として参加したと話していた。その影響か彼女は「易書」そして「占い」に強い関心をもっていた。私がどのような運命の星の元に生まれてきたのか知りたいらしく、私を新宿の母とよばれたその女占い師のところへ連れて行くといった。私といえば「占い」=「迷信」位にしか思えず、そんなものにお金を払うのはいやだと拒否した。この占い師はよく当たる占い師、お金は私が払うからという彼女の強い声に押され、女性ばかりが長い列をつくっていたその中に男一人だけ加わった。その時の女占い師のいったことはあれから45年以上経った今も忘れずにしっかりと憶えている。「あなたが生まれた時両親は離れ離れに生活していましたね。」(このことを母に話したらあたっていたのか驚いたような顔をしていた。なぜそうだったのかは不明)そしてこう云った。「あなたは他人(ひと)に助けられながら自分の人生や夢を実現して行く人です。あなたは強い運をもっています。願うことはその多くは実現するでしょう。しかし、一つ注意しなければならない。あなたはあくまでも周囲の人の助けを借りながらものごとをなして行く人なのであって、それを自分の力で成しとげたと思いあがったら、あなたの運はあなたから去っていくでしょう。あくまでも謙虚に人生を生きなさい。」半分バカにしたように特別の思いをもって聞いていたわけではないのだが、その女占い師の言葉は私の心の中にしっかりと鎮座していった。

 

 60才になって年金支給の案内が来た時のショック、でもその時は「国から小使いがもらえるのだから」と自分を説得した私。でも65才になって「老齢介護保険証」が送られてきた時は自分を説得する言葉は見出せなかった。その年齢にさしかかったことにただただその「事実」を突きつけられたことにショックを憶えるだけだった。2012年3月1日、1946年生まれの私は66才のゾロ目年齢を迎えた。東京を離れて26年、「人生旅路を旅する、人生の良き旅人づくり」というわかるようなわからないような漠とした夢をもって挑戦しつづけてきた現在の「あぶらむの里」づくりも多くの人々の支援によってかたちをなし、それなりの働きをなすことができるようになってきた。

 

 振り返ってみるに実に多くの人に出会い、それらの人々に導かれ、支えられここまで歩んでこられた人生であったことを強く強く思う今日このごろである。己が人生旅路をしっかりと歩み旅した人との出会いは「人生旅路の一里塚」となって漠とした人生を歩む一人の若者を導いていってくれた。そしてその若者が66才を迎えることになった。どんな人との出会いがあったのか、その出会った人々がどのような己が人生を生き切ったのか、思いつくままに綴ってみたい。

 

「手紙 室永少尉の妻」につづく