手紙 室永少尉の妻

 

 「私は過去、室永少尉こと室永巌の妻でございました。」私はこれまでの人生で、これほど強激な手紙の書き出しは知らない。

 

 私の書斎の本棚の一角に「人生いろいろ」と表した手紙ファイルがならんでいる。私は年に一度、「手紙供養」をする。パソコンメール全盛時代にあって、アナログ人間の私は、手紙、ハガキでのやりとりを大切に思っている。いただいた手紙類はためておき、忍びないのだが「手紙供養」として焼却させてもらっている。しかしどうしても焼却できない手紙がある。私はそれらを「人生いろいろ」と表したファイルの中に保存している。子ども達には私が死んだ時開くようにといってある。プライバシーのこともあるので。しかしもう時効を迎えたものもある。「手紙」の中で私の心に残ったいくつかのものを紹介してみたい。

 

 この書き出しの手紙とのいきさつはこうだった。「人生」というものの不思議さ、いかんともし難さを教えられたものの一つだった。

  私の人生を決定的にしたものは沖縄にあるハンセン病療養所愛楽園の人々との出会いだった。そこで出会った人々、これからもこの連載の中で沢山出てくると思うが、今回はその一人、石川真安さんだった。

 

 沖縄の祖国復帰の年、1972年ごろだったと思う。そのころまだ学生で春夏休みはほとんど全て愛楽園でボランティアとして過ごしていた。そんなある日、真安さんが私を訪ねてきた。「聞くところによると大郷さんは富山の出身、沖縄戦の時、私の家に戦闘で負傷した兵隊さんが傷が治るまで滞在していた。1ヶ月ほどだっただろうか、その間家族同然で、子どもだった私もよく遊んでもらい勉強も教えてもらった。傷が癒えた後、原隊復帰されたが、その後の石川岳の激しい戦闘で多分亡くなられたと思う。ほぼ全滅に近かったと聞いているから。そのご遺族の方に当時の様子をいろいろと話してあげたいと思っている。それが終わらないと私の戦後は終わらないのです。」という内容だった。はずかしながら初めて彼からその話を聞いた時、真安さんの真剣さに気づかなかった。

 

 私は故郷富山へ帰り、県庁を訪ね戦死公報を調べた。しかしどこにも室永少尉という文字は見当たらなかった。真安さんの手がかりは室永少尉、富山県出身ただそれだけだった。

 その時はアリバイ証明のような軽い気持だった私、その旨、彼に手紙を書いた。そうしたら帰省中の私に彼から手紙が来て、こんなことを思い出した、あんなこともあったと当時の出来事が綴ってあった。戦争が終って20数年余、自らがハンセン病という重荷を背負い必死に生きながらも、一人の兵士のことを心に想い、その兵士のご遺族に報告し終わらなければ自分の中の戦争は終らないという彼の真剣さに私は心を打たれた。

 私は地元新聞「北日本新聞」に投稿した。「沖縄で戦死”室永少尉”遺族はどこに 西砺波郡出身?沖縄県人が探す」という見出しで記事が出た。

 

[以下、昭和47年(1972年)12月6日 北日本新聞より]

 太平洋戦争末期、沖縄で戦死したとみられる「西砺波郡出身の室永少尉」の遺族に連絡をとりたい。沖縄県のライ療養所(※原文ママ=筆者注)で入院中の一患者からこのことを聞いた聖公会神学院生、大郷博さん(27)=富山市出身=は、患者の願いに協力「室永少尉」の消息を探している。

 この患者は、沖縄県名護市のライ療養所(※原文ママ=筆者注)「愛楽園」に入院中の同県石川市の石川真安さん。ことしの夏、大郷さんらがボランティア活動で同療養所を訪れたさい、大郷さんが富山県出身だと知った石川さんは「戦時中に知りあった富山県西砺波郡出身という”室永少尉”の遺家族に連絡をとり、生前のことなどを話したい。協力してほしい」と大郷さんに依頼。

 この話を聞いた大郷さんは、八月の旧盆に富山へ帰省したさい、県庁で戦死公報や電話などで「室永少尉」の行方を調べたが、該当者は見当たらなかった。このことを石川さんに伝えたもののあきらめ切れない石川さんから再び協力を要請してきたため、大郷さんは「少しでもライ患者(※原文ママ=筆者注)に喜んでもらえれば・・・」と再捜索を決意、このほど北日本新聞社にも協力を要請してきたもの。

 石川さんの記憶によると「室永少尉」は昭和二十年当時は二十六歳位で、身長一.七メートル。度の強い黒ブチの眼鏡をかけ、父親と姉が教職にあったという。沖縄戦の始まる少し前に乗船中の船が与論島付近で沈没し、救助された後は中飛行場(現在の嘉手納飛行場)の特別混成師団の守備隊に勤務。二十年四月、米軍の攻撃で負傷し、約二十日間、石川さん一家と生活を共にした。

(北日本新聞社の了解を得て転載しています) 

 

 私の新聞への投稿が記事となった事、親からの知らせで知った。しかしその後何の音沙汰もなかった。

 牧師になろうと決心した私、神学院というところでキリスト教を学んでいる時だった。ある日突然におもいかけずにも一通の手紙が届いた。冒頭の手紙だった。

 

大郷様

 私は過去、室永少尉こと室永巌の妻でございました。昨年末より貴殿のなみなみならぬ御尽力によりまして、沖縄の石川様と連絡がとれましたこと、心底より感謝申し上げます。有難うございました。奇遇と申しましょうか、昨日御宅様のお葉書と一緒に石川様からお便りがとどいておりました。何ともうしましょうか、胸のつまる思いで拝読致しました。

 昭和二十二年に結婚し二十六年に死亡する迄の短い縁でございました。当時、主人は砺波高等学校の数学の教諭をしておりましたが、二十六年の夏休みに生徒をつれて立山登山に出かけ、山中で突然十二指腸潰瘍で多量の吐血をし、手術をしたのですが、一週間後に腹膜炎を併発して、三十才の若さであっけなく死んで行きました。その間一人の女児がめぐまれ、名は一枝と申しますが現在は二十四才の結婚適齢期になっております。折角、命からがら九死に一生をえて復員しながら、人生朝露の如しと申しましょうか、あわれでございました。その後、私は主人の弟、孟(はじめ)と再婚し、二女がおり合計現在五人家族で毎日せかせかと忙しい中にも楽しい毎日を過ごしております。

 袖すりあうも多生の縁で、このめまぐるしく猫の目の様にかわり方のはげしい世相の中で、二十数年もの長い間わすれずに他人の事を心にかけていて下さる尊い方があったものと家族一同心暖まる思いにひたっております。亡き主人がおりますればどんなにか喜んで沖縄へ出向いたと思います。命あっての物種でございます。貴殿のお里は富山だそうですが、帰省なさった時、ひまをみて砺波の方へ足をおはこび下さいませ。

 石川様にも早速お便りを差し上げました。聖公会神学院とはキリスト教でしょうか。宅は浄土真宗でございます。先ずはとりあえず御礼迄。暮々もお元気で。 かしこ

     一月二十四日               室永厚子

 

 そしてその後、室永少尉の弟さんでご主人からも手紙が来た。

 

 拝啓 長らく御無沙汰致しました。貴殿様に色々とお世話下さいまして有難う御座居ました。厚く御礼申し上げます。

 昨年以来貴方様沖縄訪問された際、ライ療養所(※原文ママ=筆者注)の石川真安様より御依頼を受け帰富された際、私の兄の遺族をお探しお尋ね下さいまして北日本新聞にて報道されたり色々とお世話下さいました事、厚く御礼申し上げます。

 又、一昨日電話にて私宅の新宅の方へ御連絡下さいまして、誠に有難う御座居ました。御礼申し上げます。

 昨日石川様より、私の兄の沖縄激戦の状況をくわしく書かれました書状を頂き、感無量の心を新たにして偲ぶ心境で拝読致しました。早速お礼状お出し致しました。新聞にて御覧下さいましたことと思いますが、昭和二十一年頃除隊して帰富致し、教職に勤務致して居りまして学校の生徒引率し、立山登山した際、山頂にて腹痛を起し三日市厚生病院にて、昭和二十六年八月十二日死亡致しました。

 石川様のお便りにて知りましたが沖縄に在住中色々お世話下さいました事、深く感謝致して居ります。厚く御礼申し上げて居きました。

 貴方様の御連絡無ければ全然分かりかねたかと思います。ようこそ御連絡お尋ね下さいまして、有難う御座いました。厚く御礼申し上げます。

 今少し近ければ石川様とお会い致し当時の状況くわしくお話し出来たかと思いますが残念に思います。文通にてお許しを願う次第です。

 色々とお世話下さいました事、感謝致すと共に御厚情、厚く御礼申し上げます。

                  室永少尉の弟 室永孟より

 大郷博様

 

 私はこれまでの人生の中で沢山の方々から手紙をいただいた。しかし、「私は過去、室永少尉こと室永巌の妻でございました」というこの書き出しの手紙ほど人生を凝縮して体当りされたように感じたものはない。「私は過去」というその”過去”という語にどのような思いがこめられたのだろうか。戦争やそれに巻き込まれた一人一人の人生。人生とは何なのか、一人の人間が生きるということはどのようなことなのか、戦後生まれの26才ごろだった私は深く考えさせられた。

 

つづく