チャペルニュースの中に見る私 Part1

  [1978年~1979年]

 


 

 

<アブラハムの旅立ち -就職戦線によせて->

          立教学院チャペルニュース 19781025日発行より転載

 

 

実りの秋、そして就職戦線たけなわの秋。大手企業は相変らずの狭き門。この難関突破が人生前半の最大目標であるかのように多くの若者は必死になっている。その狭き門をくぐったところには何があるのか、安定した生活? 保障された生涯?くぐってみたことがないから私にはわからない。

 

 大学卒業の年、私も人並みに将来の歩みを真剣に考えた。牧師への道を歩むべきか、それともある程度予測可能な安定した道を歩むべきか、決断がつかなかった、というよりは牧師への道は私には不安であった。まったく未知の世界そして経済的不安。それよりも親戚縁者との事業の道に入った方が安心感があった。決断のつかないまま後者の方に向っていった。しかし落着かない、何か後ろめたさを感じる日々が続いた。

 

 私の内に、二つの声が闘っていた。将来に安全を求め、自分の生涯を終りまで見通してそれに保障を与えていこうという自分、他方、行き先はどこか、どうなるかはわからないが神の呼びかけに従って行こうという自分。

 

 そんな時、創世記のアブラハムの旅立ちの物語は私を大きく揺った。「あなたは国を出て、親族に別れ父の家を離れて、わたしが示す地に行きなさい」。彼は行き先もきかず、その地に出たのが七五歳であったと聖書は語っている。

 私は高台に立って自分の生涯をはじめから終りまで一度に見通したかった。そしてそこにゆるぎない保障を求めていた。

 

 しかし、聖書はそんな私をあざ笑うかのように単々とした口調でアブラハムの旅立ちを物語っている。「お前の思いと願望によって描かれた人生なんて夢想されたものにしかすぎない。そこでの安全、保障は全て幻想にすぎない。人生はお前の思いと期待によってひかれたような単純な直線ではない。人生はハプニングなのだ」と。

 

 人生は出来事、ハプニングなのだ。それは私たちの思いと期待に反しておこってくる現実である。この出来事としての現実は私たちを望外の喜びに至らせると共に、やりばのない苦しみと悲しみにも至らせる。どちらに自分を導いて行くかわからない出来事性は、私たちにとっては不確実なものであり、自分をかける気にはなかなかなれない。

 だが人生の出来事性をどうして否定できようか。否定できないものであればそれを積極的にひきうけて行くのが勇気ある生き方ではないだろうか。私たちは出来事としての人生に対して臆病になっていないだろうか。

 

 この夏の立教キャンプBは「ターニングポイント」というテーマで語られた。礼拝における一人の学生部職員の証しは多くの人の心を打った。「就職は出版界しかないと決めていたのに、予想だにしなかった大学職員、自分はくさりきっていた。それはまさしくハプニングだった。しかし今、この予期しなかった現実をひきうけて行くことに大きな意味を感じている。自分に与えられた現実をひきうけて行く、それが私にとってのターニングポイントであった」と。

 意外なかたちでやってくる現実それをひきうけて行くことが勇気であり、それは信仰の業である。

 

 アブラハムが神によって示された地、それはどこかわからない。彼は神の出来事性に自分を委ねたのだ。この、神の出来事性に自分を委ねたアブラハムを、聖書は信仰の父とし、大いなる祝福を与えている。神の祝福ほど堅固を保障、安全は他にはない。

 

 


 

 

<子供の心づくり>

          立教学院チャペルニュース 19781125日発行より転載

 

  

 11月は七五三の月。教会でも子供たちの成長を祈り感謝する幼児祝福式を行いました。小学生、中学生の自殺という心暗くなるニュースが報じられる昨今です。親としてまた大人として、子供たちの健かな成長を祈り願わずにはいられません。私には四歳を頭に四人の子供が与えられ、子育て戦争の最中ですが、今回は発育盛りの子供さんをおもちの方々と共に、私の小さな体験を通して子供の人格形成のようなことについて考えてみたく思います。

 

 岩波新書にアドルフ・ポルトマン著の「人間はどこまで動物か」という本があります。彼の言うには、人間を他の動物(高等哺乳類)と比較して決定的に異なることは、その妊娠期間の長さであると。全ての動物は、生まれ出てすぐに歩き、乳を求め親とのコミュニケーションの手段の要素をそなえているなど、成育をとげた状態で生まれ出るのに対して、人間はその点全く絶望的な状態で生まれてきます。

 

 その人間が、他の動物の出生時と同じ成育段階に逮するのに、ほぼ一年かかります。彼は、「人間は生後一歳になって真の哺乳類が生まれた時に実現している発育状態にやっとたどりつく。そうだとすると、この人間がほかの哺乳類なみに発達するには、我々人間の妊娠期間が現在よりもおよそ1ヵ年のばされて、約21ヵ月になるはずであろう」と語っています。

 

 このように他の動物に比べ、人間だけが妊娠期間を1年短くして生まれ出ているのです。彼はこの現象を、「生理的早産」と呼んでいます。そして、この早産こそが人間が人間となるための独特なものであることを語っています。

 

 この早産により、人間は全くの未熟児、他の力を借りなければ生きてゆけないような絶望的な状態で生まれてくるのです。しかし、この絶望的状態の中で、他者(親)に助けられながら、他の動物が生まれながらにして実現している発育状態にたどり着く間に、人間としての固有なものが形成されていくというわけです。

 

 この期間に必要で重要なことは「おまえの誕生を私たちは心より喜んでいるョ」という表現、その子の存在を認めるサインを沢山与えることであります。それは愛情をもって乳を与えることであり、かけがえのない存在として語りかけてやることであり、また愛撫したりすることなどでしょう。

 

 もし、この「しるし」を与えることをしないと子供は十分に成長しません。時には死に至ることさえあることが報告されています。

 

 先日、ある研修会で興味あるフィルムを見ました。

スーザンが病院へ連れてこられた時、生後22ヵ月。体重15ポンド(5ヵ月の乳児の平均体重)。身長28インチ(10ヵ月平均)。歩くこともしゃべることもできません。人が側によると、ギャーギャーと異様な声を立てて泣きわめくのが印象的でした。医学的にはどこにも異常はありません。しかし、両親は彼女の誕生を喜んではいませんでした。「赤ん坊を人間というなんて全く憐な口実ですわ」と不平を言った。

 

 医師は「母性欠乏症」と診断し、看護婦の中より母性愛豊かな人を選び、週5日間、1日6時間彼女に愛情ある接触をもち、小さなスーザンの存在が他者から祝福されていることのサインを与え続けた。その結果、2ヵ月後には体重6ポンド、身長2インチ増え、ヨチヨチながら歩くこともでき、感情反応もかなり発達し以前のように奇声を発して人を拒否することもなくなりました。

 このスーザンの事例は、私たちの学びに大切な語りかけをしていると思います。

 

「野菜をたべて互いに愛するのは、肥た牛をたべて互いに憎むのにまさる」 箴言15章17節

 

 さて、私たちは子供の人格形成にとって、こちら側からの働きかけ、語りかけがいかに重要であるか、スーザンの例に学びました。

 ポルトマンは.生理的早産による絶望的状態の出生こそが人間を人間としていく独特なものであると言っていますが、ここで大切なことは親が子供に対して愛情をもって語りかけるということであるように私は思います。子供はこの語りかけによって自己形成をしていくのであり、この語りかけは出生の絶望的状況にあって、成長をもたらす重要な要素であるように思います。

 

 以上のことをふまえ、二三のことを提言したく思います。

 

●「家庭は子供の性格を形成する」、これはあえて言うまでもありませんが、今一度この事実を確認して下さい。

 子供たちは成長するにつれて家庭の微妙な印象、雰囲気を自分の性格の中にとり込みます。もしもその雰囲気が愛と信頼とまごころに満ちたものであるならば、彼は人を信じ、また信じられる方へ進むでしょう。何が家庭の雰囲気を作るのでしょうか。私たちのお互いに対する態度や思い。そして他人に対する態度がそれを作る役割を演じているように思います。

 

●「子供たちは反応を心にきざむ」とも言われています。ある児童心理学者は、「私たちは、子供が彼の環境を意識的に記憶することが不可能だと思われる年頃に、親のごまかしや習慣やマンネリズムを無意識的に記憶することができ、実際にそうしていることを知っている」と述べています。私は子供を育てていて、神様の次に恐れるのは子供であることを実感しています。自らが語る言葉をもって自らの住いとして生きているかどうか。あのあどけない子供たちは鋭く観察し、親の在り様を彼の人格形成に織り込んで行くのです。

 もし私たちが他者の心をのぞくことができるとすれば、それはその人の語る言葉です。同じ言葉でも人によって私への伝わり方が異なる体験をおもちでしょう。言葉はコミュニケーションの便宜的手段だけではありません。私たちの生きざまや在り様、価値観などが響きとして表われてくる。それが言葉です。その意味では、自分の語る言葉を自分が真に生きているかどうかじっくり自己吟味しなければなりません。

 

●「家庭で共に語り合うために時間をとること」、このきわめてありきたりのことを最後に提言します。

家族が語り合うべきだというのはおかしいと思われるかもしれません。しかし実際には、同じ家の中にいながら離ればなれの世界に住んでいる家族は多いものです。近くにいることが理解しあっていることの証明にはなりません。また、同じ家に住んでいることが家族が語り合う時間をとっていること、お互いが何を考えているのかを知っていることの保証にはなりません。

私たちそれぞれの家庭でこの語り合いの時間が真にもたれているか、そしてそれがどのようにもたれているか、その質を問うてみて下さい。ものを与えることが語りかけの代用品となっていないでしょうか。語り合いが相互的ではなく、一方的、独白的になっていないでしょうか。

 

老賢者ソロモンの声を家族でかみしめてみて下さい。

 

 


 

 

<眠りゴマ>

          立教学院チャペルニュース 1979年6月25日発行より転載

 

   

 玩具など満足になかった子供の頃、コマは大切な遊び道具だった。バランスの悪いコマの芯棒は乱れた小さな円をかきブルブル揺れ長くは回らなかった。それに比べ優れたコマの芯棒は一点をなし、コマは激しく回りながらも静止しているようだった。私たちは「あっ、コマが眠った」と言った。無駄な回転を一切捨て、強く長く回り続けるコマ、そんなのを手にした時は宝物を得たように有頂点になった。

 

 先般、ある施設の作業場で轆轤(ロクロ)の前に座った。私の師になったAさん、轆轤(ロクロ)の前に座ると達人のような顔付きになった。ゆっくりと回転させながら脇をしめて台の上の粘土を四度五度上げ下げした。そして「ハイ、センターを出す練習をして」と。Aさんの粘土塊はあの眠りゴマのようにブレもなく、全体が一点をなしていた。

 

 これしきのことと思ってやってみるが、私の轆轤(ロクロ)はグウァングウァンと変な音をたてていびつに回るばかり。横でニヤニヤ笑って見守るAさん。半日もやったろうか、しかしあまり進歩はなかった。

 幾度も幾度も粘土塊を上げ下げしながら中心を出す単純作業に疲れた私は、その基本的作業を放棄して、センターの狂ったまま創作にとりかかった。轆轤(ロクロ)を回しながら粘土塊に指を入れるとおもしろいように形が変化していった。

 ある程度茶碗らしきものが出来上り、そろそろ台から切り離そうとした時だった。グランと変な揺れがしたかと思うと、断頭台から首がころげ落ちるかのように、私の作品はゴロンと音をたてて地べたにころがり落ちた。それはほんの一瞬の出来事だった。完成寸前の作品は、私の足元に無残な姿をさらしていた。

 

「芯が立っていない」、「芯が出ていない」、すなわち中心がしっかりと形成されていないところで営まれる作業は、最終的にはきわめて惨めなものとなることをこの小さな出来事に教えられた。陶芸では、土こね三年、芯を出すのに七年程の修練を要することを後で知った。

 

 我々の周辺を見る時、人格という人間の中心形成のためにどれ程の努力と時間が払われているか疑問である。自分という一つの人格の中に芯を磨き出すという作業は地味で、そして辛くて時間のかかる困難な作業である。今の時代そんなところにエネルギーを割けば社会の流れから外れてしまう、と言わんばかりに周辺領域にのみ人々の関心がむけられている。そして、教育もこの傾向に追従している。しかし一つの人格として、その人の内に芯が立っていないならばその全ての営み砂上の楼閣となりはしないだろうか。少くてもそこから起こる人格的歪みは、その人を苦しめると思う。

 

 ルカ福音書1038節以下のマルタとマリヤの物語に注目したい。イエスは、「あなたは多くのことに心を配って思いわずらっている。しかし、無くてならぬものは多くはない。いや、一つである。マリヤはその良い方を選んだのだ。そしてそれは、彼女から取り去ってはならないものである」と語っておられる。無くてはならぬ一つのものとは何なのだろうか。聖書は、それはイエスの言葉であると語っている。我々の中に芯が立ち、人格の形成がなされて行くのは、イエスの言葉に触れ、それを真に生きる時である。私は、この言葉を柱とし、あの眠りゴマのように静かに、そして強く激しく自分の生を燃焼させて行きたく念じている。

 

 


 

 

<東南アジアとの小さな歩み>

          立教学院チャペルニュース 1979年11月25日発行より転載

 

    

 「あなたがたと別れるにあたり、我々はさよならとは言わない。明年も、そして又明後年も、あなたがたが我々を訪ずねてくれることを信じているから。旅路の上に神の平安があらんことを。」

 2週間余のワーク・キャンプを終えて我々が村を発つ日、村人を代表した一人の長老が涙ながらにこう言って我々を送り出してくれた。その言葉には偽りはなかった。戦争という大きな過去をかかえたフィリピンと日本その両者の心に、それは一点の青空のようにすがすがしいものをもたらした。

 

この夏、我々立教大学BSAの第16支部総勢26名は、フィリピンはルソン島の北部山岳地帯、小数民族の地サガダで2週間余のワーク・キャンプを行った。

 フィリピンは、NHKの「黄金の日々」などで少しは身近にはなったが、同じアジアにありながらもまだまだ知られていない国といえよう。

 フィリピンは大小7,000余の島々からなり、面積は日本の本州と北海道とを合わせたほどで、人口は約4,600万人。フィリピンは日本のように単一民族ではなく、各人種の混血民族であり、約43の部族的集団から構成されている。また、言語も70種以上も話されており、相互に意思を通じえない場合も珍しくない。そのため政府は公用語をもうけ、英語とタガログ語をそれに定めている。このような言語状況のため、キャンプ地サガダでも、学校の授業は英語とタガログ語でやっていた。子供達の日常会話は部族語や

英語、普通4つの言語を自由に使いこなしている。英語も満足に話せない我々にとっては大きな驚きであった。

 

フィリピンの8月は雨期、マニラは蒸し暑く、汗が全身からふき出した。空港にある銀行で通貨のベソに約百万円ほど換金したが、大量の札たばをカバンにしまう我々に、なんともいえない視線を感じた。それは不気味であった。月収数千円の彼らにとって、それは夢をみるような額だからであった。

 マニラでの宿舎は、フィリピン聖公会聖アンデレ神学校。神学生達の室に分宿、いつも団体行動をとっている彼らが、一人ずつバラバラにされたうえ、英語でのやりとり。たちまちパニック状態になったが、それもつかの間、さすが若者たち、すぐに片ことの英語で話し合っていた。なかにはすぐ酒盛りという連中もいた。どうもこのやり方だけは、万国共通のコミュニケートの仕方らしい。

 マニラからキャンプ地サガダまで約5百km。貸切りバスで朝5時に出発した。ルソン島はフィリピン最大の島、南から北にかけての32は平地、車窓から見える光景はのんびりと水牛で耕やす水田だけである。

 6時間後、バスは急に山道にさしかかった。北部山岳地帯への入口である。平地から一気に1,500mものぼる、そこが夏の首府バギオである。そこはまた、太平洋戦争のルソン島決戦になった戦場でもある。

 

 昭和2019日、レイテ沖海戦の勝利で一段と勢いを増した米軍は、リンガエ湾よりルソン島に上陸し、フィリピン戦最後の決戦にいどんだ。山下奉文大将を頭に、バギオ周辺に布陣した。それは壮絶な戦闘だったらしい。あのマッカーサーをして、「米国史上、最大激戦の一つであった」と言わしめたほどの激しい戦いだった。どれほどの人が死んでいったのか、想像もつかない。この戦闘で、日本軍は北部の山中へと追い込まれていった。それはもはや敗走であり、戦いの相手は米軍ではなく、飢えであった。戦いに敗れ、軍規を乱し、飢えた兵士とはどんなものか戦争を知らない我々にも想像がつく。我々のキャンプ地サガダは、山下将軍の降伏地キャンガンに近いボントクより、少し奥に入った村である。村人の我々を見る目には厳しいものがあった。

 

バギオからサガダまで約160km、バギオで乗り継いだ小型バスは険しい山道を延々8時間かけて走る。現地に着いたのが九時近く、15時間余のバス旅であった。口を開くのも重く、その夜は泥のように眠った。

 フィリピン聖公会は、三教区で構成されている。北部山岳地帯を中心とした北教区、マニラなど都会を中心とした中央教区、そして南の島々を中心とした南教区。我々のキャンプを受け入れてくれたのは、フィリピン聖公会であるが。具体的には北教区であった。

 サガダはフィリピン聖公開発祥の地である。1898年、米西条約により、米国はスペインに代ってフィリピンを統治した。これと同時に米国聖公会も宣教を開始したが、330年に渡るスペイン統治の為、平地帯は全てカトリックによって占められていた。残された可能性は、未開地北部山岳地帯だけであった。このようにして今世紀初頭、サガダに米国聖公会宣教団が入り、教会、神学校、病院、学校などをつくり、山岳地帯に住む少数民族への宣教の足場をつくっていったのである。

 

 北教区主教アベリオン師は、サガダの教会に対して我々のキャンプ受け入れを命じた。主教命を受けた教会員はいささか戸惑っていた。沢山の日本人がやって来るという、村人の日本人感情には厳しいものがある。主教命と村人との間に入った教会員は、我々をどのように受け入れればよいのか苦しんだと思う。

 村人は我々を、「トレジャー・ハンター」と呼んでいた。山下将軍が隠したといわれている幻の財宝を探しにきたと、真剣に噂しあっていたのには驚いた。はるばる遠い日本から、フィリピン人さえ訪ずねることの少ない山奥へ、ワーク・キャンプにやってきたとは誰が信じるだろうか。果樹園用地開墾のため、スコップやクワで穴を掘っている我々の姿を見て、外界との接触の少ない村人が「財宝探し」と思っても無理からぬことであった。

 村に入って10日間程。我々に対する村人の目は、じっと観察する目であった。

 

学生達はよく頑張った。電気やガスなど文明の利器のない世界、太陽と共に起き、そして暮れてゆく生活だ。床の上に毛布一枚敷いた簡易ベッド?からの起床は五時、南国といってもサガダは標高1,700mほど、朝は寒い。

 学生達の一日は朝の体操から始まる。村の広場での体操を見物に、毎朝百人余の子供たちが集まった。「日本のお兄さん達、何か変なことをやってるョ」、この国にはどうも体操というものがないらしい、日本独特のラジオ体操に目を丸くしていた。「これはよくできている」とラジオ体操に感心した高校の体育教師、さっそく正規の授業の中で教えてほしいとのことで、学生達による指導が始まった。また、宗教の時間に日本の宗教について話してほしいときた。下手な英語で必死に話した、私のその英語を担当教師がまた英語で通訳するという、世にもおかしな光景が展開されていった。

 雨期のサガダは午後3時になると印で押したように雨がやってくる。村人はこの雨に所有格をつけて、「我々の雨」と呼んで親しんでいた。その為、労働作業は午後1時まで続けて、1日の分は終りとなる。午後はキャンプに合同したフィリピンの学生達との話合いや、子供たちとの交歓会などに用いられた。晴れ間に行う野球やバレーボールなどは楽しかった。高校生とのソフトボールの試合で、我々がダブルプレーをした。ポカンとした彼らの顔、今のプレーは何か、どうして二死なのかと抗議がきた。ダブルプレーなんてはじめてのことらしかった。

 このようにして、学生達は一歩一歩子供達の心の中に入っていったのである。

 

日本を発つ前、学生達は食料品を持参したいと言ったので、私は厳しく戒めた。現地の人と交わり、新しい関係をつくりあげるならば、可能な限り彼らと同じ生活条件に立つことが必要と思ったからである。日本の生活を現地に持ち込むようなことをしては、「交わり」ということはおこらない。

 事実、日々の食べ物に対して不満はあった。毎日々、同じようなものばかり、しかしそれしか手に入らないのである。我々にはお金があって。まだものを買える立場にある。収入のほとんどない村の多くの人々は何を食べて生きているのか、我々の食生活を通して、彼らの食生活をわずかながらもかい間見る我々であった。自らが飢えたなかで知るのと、満されたなかで知るのと、「知る」ということがこのようにも異なるものなのか、我々は肌を通して教えられた。

 こんな食生活の中にも心踊る時があった。土曜日になると、ドジョウを売りにくるのである。私はさっそく柳川鍋を料理した。思わぬ日本料理に学生達は喜んだ。これを伝え聞いた村の主婦が、作り方を教えてくれといった。私は軽い気持で応じたが、なんと大ごとになり40人程の人々が集まっていた。サガダの村で、時ならぬ「柳川鍋」お料理教室がはじまったのであった。しかし、お料理教室の方が、高校で宗教を教えるよりも私には楽であった。

 そんな、こんなの出来事を通して、我々は確実に村人の心の中に入っていった。いつしか彼らの目も観察する目ではなく、我々と共にあろうとする目に変っていた。

 

 村を発つ5日前、村人は我々の歓迎と送別を兼ねての大夜会を催してくれた。満天の星空の下、篝火を赤々とたいた村の広揚。色鮮やかなイゴロットの正装に身を正した男女青年が、伝統的な戦士の踊や歌などを沢山披露してくれた。それは実に見事なものであった。

 宴もたけなわのころ、村の代表から我々に記念品が贈られた。それは手織りの大きなペナントであった。それぞれのシンボルをぬい込んだ下に、イゴロットの言葉で、「アデイタコ・ボコダン・ディ・ガヴィス」と記されていた。「良きものを分ちあおう」の意である。我々は胸が一杯になった。あの戦争で、多くの村人が日本人によって殺されていった。当時村長をしていたという老人が、日本兵がどれほど残酷なことをしたかと、私にくってかかりながら話した。そんな大きく、重い現実があるにもかかわらず、彼らは「良きものを分ちあおう」という言葉を贈ってくれたのだった。この言葉の中に、それを贈る側も、それを受ける側も互いの気持を感じあい、お互いの頬は涙にぬれていた。その瞬間、はじめてこのキャンプが一体何であったのか互いの心の中におぼろげながらもはっきりしてきたのではなかったろうか。

 

 916日、我々は帰国の途に着いた。村の代表が我々を見送りにマニラまで付いてきてくれた。空港に向うバスの中、彼は「もう何も言うことはない」と言って涙を流していた。思えば、彼は主教命でわけのわからない日本人を受け入れて、村人との間に立って苦しんでいたのであった。しかし、我々のサガダでの必死の生活は、村人の間に新しい変化を生みだしたのであった。それは、フィリピンと日本との新しい、確かな歩みの小さな一歩であった。彼は、不安の中にも我々を受け入れた事が、村にとってもそしてこの日本人にも、大きな意味を持ったことを知って喜んでいたのであった。彼は私の肩を強くたたきながら頬を濡していた。

 マブハイ・フィリピン(栄光あれ・万歳)、マブハイ・サガダ、そしてマブハイ・ジャパンとさけびながら、我々は機上の人となった。

 

 灰谷健次郎は「太陽の子」という本の中で次のように語っている。「一つの『生』のことを考える日本人は極端に少くなった。今ある『生』がどれほど沢山の『死』や『悲しみ』の果てにあるかということを教える教師も少なくなった。それは日本人全体の堕落です」と。なんと適切に我々の現状を言いあてた表現でしょうか。

 私はこの言葉を今度のキャンプを通して、学生達と分ちあいたかった。我々の今ある「生」がどれほどの犠牲の果てにあるかを知る時、我々の「生」が真に生きたものとなり、そこから他者の生に仕える姿勢がうまれてくることを我々は教えられた。

 またわずかの滞在であったが、東南アジアの現実の一端に触れたことは、我々の今後の学びのうえに大きな意味を有していることを確信している。

 

 最後に、このキャンプ実現のために多大なご協力を下さいました方々に、この紙面をお借りして心より感謝申し上げます。