沖縄まで 偶然という不思議

 

 1968年2月、私は「波之上丸」という老朽船に乗って沖縄にある「愛楽園」というハンセン病療養所を訪ねた。どのように生きて行けばよいのか、ワラにもすがるような思いであった。22才になる春だった。

 

<ひろし少年のこと>

 私は女5人、男2人の次男、小さい頃より家業の後継ぎといわれて育った。父は神通川という川の上に大きな屋形船を浮かべ、川魚料理を生業としていた。私のジイ様は七軒町という川魚漁師町で舟大工をしていたという。父は子沢山の貧乏舟大工の長男として生まれ育った。地元の人々に混じって漁に出たという。しかし漁という第一次産業のままでは貧乏から抜け出せないと思ったという。漁った川魚を料理して出せば、ジイ様の舟大工の技術と絡み合わせ、漁れたての川魚(主に鮎)を風情ある川舟で、美味しいこともあったのだろうが、これがヒットして父の店“川舟千歳”は知事や市長、富山に工場を有する大企業の接待場だった。「味は舌で憶えよ」、小さいころよりおいしいものを食べて育った。しかし、酒はよいがタバコは厳禁だった。そのためか今もタバコはやらないが、10才ごろから親の前では飲んでよいといわれたお酒は生涯の友となった。

 末は家業の後継ぎといわれて育った私、学業には今一力が入らなかった。中学生の時山田ケンジという友人がいた。彼は秀才で二人でよく遊んだ。二人で黒色火薬をつくり(硝酸7、硫黄1、木炭の粉2?)、セルロイドにアルコールを加えて溶かし、その中に黒色火薬を混ぜ、アルコールがとんでしまえば黒色火薬の固形燃料ができる。彼はそんな高等なことを私に教え、それを鉄のエンピツキャップに詰め、ローソクの火であぶりロケット遊びごっこをよくしたことを今も憶えている。二人共宿題などは絶対して行かなかった。(私の場合はして行きたくても全くできなかったから。料理人になるのにこんなものは必要ないと思っていたから。)

 数学の教師に守川という先生がいた。あだ名はカンモリ(トウガンのこと。顔立ちがそっくりだった。)。「宿題してこなかった奴は立て!今日も山田と大郷か。しかし同じやってこないといっても山田と大郷とでは中味が違うからなァー」と。屈辱!クツジョク!その時の口惜しさといったら。しかし言われても仕方ない。山田は宿題して行かなくても満点、私は0点なのだから。数学での点数といえば、正解を下から選べという設問でまぐれ当たりの時につくぐらいだった。

 

<ウソのような本当の話>

 小学校4〜5年生のころだったと思う。音楽の時間、先生は「今日は自分の好きな歌を歌いなさい」といった。当時はみんなシャイ、誰も歌おうとはしなかった。口に出した手前、先生は困っていた。そのころから義侠心に富んでいた私(?)、ここで助け舟とばかりにハイッと大きく手を上げた。「ハイ、大郷君歌ってみなさい」。私は元気よくいつもお客さんが歌う要領で大声で歌った。「あなたのリードで島田もゆれる.チークダンスのなやましさ.みだれる裾もはずかしうれし.芸者ワルツは想い出ワルツ・・・.」

 チークダンスも乱れるすその意味も何も知らないヒロシ君、県知事や大企業の社長、社会で「エライ」といわれている人が大声で歌う歌だから、さぞかしよい歌なのだろうと思っていた純真無垢な当時のヒロシ君だった。歌のイミを知っていたのか先生は絶句、TVなど何もない時代、お座敷小唄など耳にする機会のないクラスメイトは何のことやらとポカンとしていた。その日、家に帰って大目玉。「今日学校で何をしてきたかー!!」何をといわれても思いつくのは大きな声で歌ったことだけ。大人になってやっとその意味がわかった次第です。忘れられない思い出、そしてこの歌、ゲイシャ・ワルツは私の愛唱歌となった。

 そんな訳で私は中学卒業後、デッチ見習いに出るつもりだった。もうすぐ卒業というある日、父は威厳をもって「お前に話がある。ちょっと部屋へ来い。」と来た。「家業は穣(兄)が継ぐことになった。お前は好きなようにしてよい。」と突然のフリー宣言、「今さらそれはないでしょう」というのが私の心の中のツ・ブ・ヤ・キだった。あの時の「ゲイシャ・ワルツ」ではないが、“別れよ切れよというのは芸者の時に・・・”という心境だった。

 1番目〜5番目まで女姉妹、6〜7番が男だった我が家の姉兄弟関係、6番目の待望の男、兄が産まれたのは父満44才、私は48才の時だった。私が成人する時は父は68才、兄も考えたのだろう、彼が家業を継ぐと決断したのだった。

 「今日から自由にしてよろしい」といわれても何をどうしてよいのやら全くわからない私だった。中学は学年全体で400名位だったころ360〜70番代で尻から帆をあげていた私など進学する学校もなし。どこかへ丁稚見習いにという私に、「世間体があるからせめて高校までは・・・」といって泣く母親。E・フロムの「自由からの逃走」ではないが、「自由にしてよい」といわれても「自由」ほどどうすればよいかわからないものはない。16才にして初めて人生のジの字を考えるようになった。

 

<東京へ>

 どうにか入った高校を卒業するころ、「人生の方向付け」思考が本格化していった。何に向かってどのようにして生きて行けばよいのか、五里霧中の状態だった。そんな時、一つの言葉が私を捕らえて離さなくなった。その昔アメリカのホテル王とよばれたスタットナーという人の「Life is service — 人生は奉仕なり」という言葉だった。彼はその言葉を人生のバックボーンとしてホテル業に入ったという。しかしもう50年も前のこと、その言葉に出会うようになったいきさつは思い出すことはできない。「人生は奉仕なり」、素晴らしい言葉だとそしてその言葉に導かれて、私は東京YMCAのホテル専門学校に学ぶことになった。

 1964年東京オリンピックの年、ハワイでのホテル研修の機会があった。その当時、誰もがそうだったが外国へのあこがれは強いものがあった。

 私の父は明治生まれなのに洋画が好きだった。仕事が多忙にもかかわらず、48才の年齢差を越えてよく私を映画館へ連れて行ってくれた。しかしスクリーンの中でキスシーンが出てくると、‘おい帰るぞ’といって席を立つのであった。キスシーンよりもインディアンとの戦闘シーンが楽しかった私、泣きながら父に手をひっぱられて映画館を出た。TVもない時代、映画のみが外国への窓口だった。私の外国へのあこがれはつのるばかりだった。

 渡航制限のあった当時、我々一般人が外国へ行くには“船乗り” (船員)になることが一番手っ取り早かった。私は商船高校に行きたくて仕方なかった。「自由にしてよろしい」といわれたら商船高校へ一直線だったが、それにしてはあまりにも成績不良だったのであっさりと諦めということになった。

 そんな時だっただけにあこがれの外国へ行けるチャンス、ダメ元で親に相談したところ拍子抜けするほどあっさりと行かせてもらえることとなった。1964年12月23日、横浜港よりプレジデント・ウィルソン号に乗って旅立った。

 私の父は88才で亡くなったが、その前年帰省した私に突然「それにしても高い金を払ってお前をハワイまで勉強に行かせたがそれはお前の人生にとってどういう意味をもっているのか」ということをたずねた。その時私は「なァーんおとっちゃん、あの時がなかったら今の自分がないがやちゃ」と富山弁で返答した。あの時のハワイ行きがなかったら、私の人生はどうなっていたかわからない。一人の人間の人生を左右する、そのあまりもの偶然性を思うだけで、長い年月を経た今でも寒気がするのです。

 

<一冊の本との出会い>

 ホテル学校の同級生に在日韓国人の李○○さんがいた。高輪でコリアンハウスという当時有名な韓国レストランのお嬢さんだった。姉がハワイにいるので訪ねてほしいということだった。心細い限りの外国生活、唯一の知人となるべき同級生のお姉さんを訪ねた。ムーンチャ李さんだった。彼女とルームシェアーをしていたのが冒頭の服部春美さんだった。ハワイ滞在中二人にはいろいろと助けてもらった。そんなある日、春美さんは私に「大郷君こんな世界もあるのヨ。機会があれば一度訪ねてみたら」といって一冊の本を貸してくれた。ハンセン病療養所沖縄愛楽園産みの親、青木恵哉師の「選ばれた島」という本だった。宿舎にしていたホノルル中央YMCAホテルの一室で寝ころびながら何げなく読んだ本、まさかその一冊の本が私の人生を決定づけるとは思いもよらなかった。“昆虫記”で有名なファーブルがその書の中で語るまさにそのことが私の身におこったのであった。

 

「誰にでも、その人の思想の向きに従って、それまでは夢にも思いつかなかった展望を見せてくれて、精神に一つの紀元をきしてくれる本があるものだ。それは新しい世界の扉を大きく開いてくれ、その後我々は知力をそこに傾けることになる。それは一つの火花で、炉に焔の口火を運んでくれるものだ。炉の中の薪は、この火花の助けがなければ、いつまでも役に立てられないままで終る。そして我々の思想の発展上、新しい紀元となるこんな本を手にする機会は、よく偶然が与えてくれるものだ。ほんのつまらない事情、どうにかして眼にふれた数行の文字が、我々の将来を決定し、運命の轍の中に、我々を引き入れてしまうのだ。」

 

 当時としては高額な費用を支払ってのハワイでのホテル研修、私が得たものは自分が進む道への疑念だけだった。為替相場1ドル360円時代、当時ハワイでの1ヶ月の生活費は約200ドル(72,000円)かかった。日本の賃金相場といえば、初任給7〜8千円、一家を支えるオヤジの給料は2〜3万円だった。ホテルのポーター(客の荷物運び)のチップは25セント(90円)〜1ドル(360円)、おもしろいように金がたまる。アメリカと日本とのあまりもの経済格差にただ口が開くだけであった。

 当時のハワイは米国本土から避寒に来るようなお金持ちの人たちが多かった。そのような人たちへの「人生は奉仕なり」、私の胸中は複雑だった。この言葉の真実は変わらないが、「奉仕」の対象はこのような世界ではないと思うようになった。親に多大の負担をかけてのその結果がこれだった。私はどうすればよいのか途方に暮れてしまった。

 

<大学入試時のハプニング>

 「ハワイは狭くてすぐ見つかるから西海岸へ行け」いわゆる不法滞在の誘惑だった。あれだけの圧倒的経済格差を見せつけられると気持ちがぐらつくのも無理は無い。メキシコのように「国境」という人工的線一本を境にその格差を見せつけられると命を懸けるのも理解出来る。しかし私にはそんな度胸はなかった。何よりも老いた両親に心配をかけることは絶対にできなかった。国に帰り考えることにした。

 

「大学に入り4年間という時間の中で進むべき道を考えよう!」4年間という時間確保のために私は大学を目指した。いわゆる今で言う積極的モラトリアムであった。どんな学部でもよかったのだが「人生は奉仕なり」という自分の命題があったので「社会福祉学科」を選んだ。

 明治学院大学の社会福祉学科の入学試験日は3月2日だった。なぜそこまで憶えているかといえば忘れることのできない思い出があったからである。

 大学浪人中、身勝手な私の理由からだったので親からの一切の援助を断り、都下東久留米にあった聖ヨハネ修士会というアメリカ人修道院に「ハウスボーイ(住み込み男中)」として働き、食住付き月額3500円の手当を得てそこから予備校に通っていた。

 入学試験前日3月1日は私の誕生日、明日の入試に備えて9時ごろ布団に入った。ところがそこへ友人数人が訪ねてきた。明日の試験を理由に断ると「はるばるこんな遠くまで祝いに来たのに」とブツブツ。私といえば逆立ちしても合格しそうにもない明日の試験、早々にヤケをおこして飲むことにした。ヤケ酒はこわい。夜通し飲んだ。朝方にはもうフラフラ、「受験ヤメタ!」と宣言、そうしたらその悪友達言うことに事欠いて「お前は何のためにこの1年間苦労してきたのだヨ。試験だけは受けなきゃだめだヨ」とまあこんな風だった。気を取り直して受験に行ってはみたものの二日酔いで頭はガンガン、胸はムカムカ、頭も体ももう自分のものではなかった。もう時間をかけて考えるということはできる状態ではなかった。そのため設問への判断は早かった。早く時間が終わることだけを考えていた。

 最後の試験、選択の日本史が終わり一応の安堵と共に受験場を出た。すると係員が私の名前を確認して、これから「面接」がありますからといって別会場へ引っ張るようにして連れて行った。“入学試験に面接”、そんなことどこにも書かれてなく知らされてもいなかった。後日判明した事だが、入学者数170〜180名で男子は20数名だけだった。ペーパーテストだけならば圧倒的に女子の方が優秀、日本の社会福祉の将来を考え男子学生を増やそうということになり、現役の受験生ではなく「寄り道組」の男子受験生がその対象となった。

 私の面接教官は当時の学科長だった重田信一先生だった。温厚な方だった。「ホテルの世界から福祉の世界へ、ハデな世界からあまり日の当たらない正反対の地味な世界へ」その転進理由を問われた。「人生は奉仕なり」、表面的には正反対であろうと自分の基軸、寄って立っているところは変わっていないということを二日酔い状態で話した。重田先生は「失礼しました」と私に頭を下げられた。

 この「面接」という考えられないハプニングが私の人生を救い上げてくれた。ペーパーテストの点数だけでは絶対に合格していなかった。こうして不思議な手の導きによって私は大学生となった。

 しかし苦労知らずで頭だけで考えていた「奉仕」や「福祉」、生まれて初めていわゆる福祉の対象者といわれた「知的障害者や身体障害者」の人々をこの目で見、接した時自分の中にあった全てのものがみじめに音を立てて崩れて行った。

 1968年2月、大学1年生を終えようとしている春、私はワラにもすがるような気持ちで沖縄にあるハンセン病療養所「愛楽園」を訪ねた。

 

つづく