チャペルニュースの中に見る私 Part4

  [1984年10月~1985年10月]

 


 

 

<ゆっくり、もっとゆっくり> 

立教学院チャペルニュース 1984年10月25日発行より転載

 

 三月下旬、私は数名の学生と共に「日本縦断100kmリレー」の下調べのため、鹿児島から東京までを車で走破した。一日400km、2kmごとにコマ地図をつくり、距離目標を確認して行く作業は苦痛を伴うものであった。普通であればスピードを出し、何気なく通り過ぎて行くだけだが、2kmごとのこの作業は車中からとはいえ過ぎ行く町々を身近なものとし、また、日本の道は車優先でいかに歩行者を無視したつくりになっているかなど、普段見落としているものを沢山発見させてくれた。そして、狭い国土といわれながらも、その広大さを肌で知った。と同時に、そこを生身の人間が一人100kmという距離を走ると思うと、走る一人一人の精神と肉体の中に、一体何が起るのだろうか、それはとてつもないことのように思われ、提案者の一人でありながら自分の口を呪ったりした。


 ここ数年のアジアの人々との生活は私に大切な事を教えてくれている。全てにおいて便利、スピードを求める我々の生活と異なり、万事においてゆったりとしている。先進国人と呼ばれる人々は、彼らのもつゆったりさを非能率で、時間の無駄使いときめつけてしまう。しかし私には、彼らのもつゆったりさは人間的スケールの雄大さのように思えてならない。

 朝目覚めと同時に炊きたての御飯が出来上っている私たちの生活、便利さこの上もない。しかし、口にするその一杯の御飯が何処からくるのか、どのような人々の労働や思いがこめられているのか、私たちの誰もが知ることはない。

 他方、フィリピンやネパールで口にする一杯の御飯のスケールは雄大である。二千年余をかけてつくられたという全山丸ごとの棚田。自分の田での収穫は一日仕事。籾のまま貯蔵される米は必要に応じて脱穀される。からだより大きな杵を用いての作業は子供たちの大切な仕事。燃料の薪づくりなど、たった一杯の御飯にも膨大な彼らの労働の蓄積がある。そして、彼らはその一杯の御飯が何処からくるのかを誰よりもよく知っているのである。


 スピードはものごとの過程を省くだけ省き、結果だけしか我々に与えない。そして我々はそれをよしとしてきたのである。しかし、その結果我々が得たものは何だったのだろうか。今日、盛んに求められている思いやりや優しさなどの欠如は、スピード至上主義がもたらした弊害ではないだろうか。

 そう云えば私の子供の頃も薪での御飯炊きだった。薪割は私の仕事だった。家族が口にする一杯の御飯に自分も役割を負っていることを誇らしく思っていた。また、朝早く起きてカマドに火を入れる母親の後姿を見て、子供心にも何かを感じていたのだろう。


 このように、生活に一つ一つの過程を刻むアジアの人々、そのことの大切さへの気づきが、我々の100kmリレーへの挑戦となったのである。

 17日間に渡った日本縦断100kmリレーは、その一つ一つが大きなドラマであった。足の故障を引きづりながら歩き続けたランナーたち。途中、幾度も棄てようと思ったという。しかし、先に苦しんできた仲間のことを思うと、苦しみ抜く力が湧いてきたという。必死に走るランナー、そんな姿に打たれて励まし続ける伴走者たち、そして仲間の力づけに呼応し死力をふりしぼったランナーたち。一つ一つの過程を共有するが故に苦しみも分かちあうことができた。そして、優しさや思いやりなどが添えて与えられた。だから完走できたのだという。


 今さら薪で御飯を炊いたり、昔の旅のように100kmを歩くことも私たちにはできない。しかしせめて立教の教育だけは、結果だけをつまみ食いするようなものではなく、一つ一つの過程の中に学びがあることを再認識し、大切にしたい。「日本縦断100kmリレー」はそのことも問い、求めている。


 

 

<菜園トマトの一人言>

立教学院チャペルニュース 1985年9月25日発行より転載

 

 


 立教高校の甲子園出場は、この夏を爽やかなものにしてくれた。フィリピン・キャンプ中の私達一行も、勝敗の結果を求めて国際電話をかける始末。甲子園出場決定の日はマニラで祝杯、ベースボールごときで何をそんなに騒ぐのか不思議そうな顔をしていた現地の人々。さもあらん、しかし「甲子園」は理屈抜きに私達を興奮させるのです。

 「第一戦は勝ったが、二戦は負けたヨ」、「いや、俺のは決勝戦まで進んだヨ」。ニュースの伝わらない山中での唯一の甲子園情報は、互いの見た夢でした。誰の夢が現実的であるのか、その講釈だけで一日が楽しく過ぎて行くのでした。フィリピンで見た夢は「立教高校甲子園」だけで、安否を気づかっている留守家族が登場することは一度もなかった。

 帰国した私達を待っていたのは二回戦敗退と募金案内、立教学院をあげて物心両面に渡って応援されたことは素晴らしい。いつもこのようでありたいと思った。

 

 さて、キャンプを終え家に帰ると、空地につくった菜園にトマトが豊かに実っていた。ネパールから送られてきた種である。

 インド・ネパール両国民にとって国境往来は自由、ネパールでは木挽や野菜売りはインド人の専業であった。どこで仕入れたのかわずかな野菜を自転車につけ、炎天下を行商していた青年から買った小さなトマト、太陽の恵みを一身に集めたかのように真赤で見るからに美味そうだった。子供の頃、夏のおやつといえば水で冷やしたトマト、甘酸っぱくて美味かった。水ぶくれしたようないまのトマトに背をむけて久しかった私、ネパールの地で子供の頃のトマトに出会った。無心で食べた。

 「このトマト、日本で育たないかなア」、そんな私の一人言を聞いていたS氏が種を送ってきてくれた。手紙に同封されていた小さなちいさな種、こんな小さな種からあのトマトができるのかと疑った。気候、風土の違う日本に来て元気に育っていくだろうか。種を見るのは初めてではないのに、なぜか種のもつ不思議さに改めて心ひかれた。

 

 「ハイブリッド」、「エフワン」、食糧問題の本を読むとよく目にする言葉。雑種強勢、雑種一代目の意味である。最近の野菜や花の種子はほとんどがこのF1とのこと。雑種一代目は優性の法則で親のかくしもっていた強い性質が一気にあらわれ、多収穫が期待されるとのことである。

 しかし、雑種強勢の効果があるのは一代目だけであり、二代目からは分離の法則がはたらき劣性もあらわれはじめ、品質、収穫すなわち商品としてのバラつきがひどくなり、実の商品価値が落ちてしまうとのこと。結局、農家としては収穫された実から次代の種子をとることなく、毎年業者より規格化された種子を買うこととなる。

 一握の種子会社がコンピューターを駆使し、最も効率のよい優秀とされる配合を行い、そこから生まれる雑種一代目からのみ収穫を得て行くのである。そして一代目は二代目をうむことは決してない。

 幾千年、万年かかって伝えつくられてきた種子が、商品的価値という一片の価値観で淘汰され、一握の人間によって操作されてゆく時代となった。一粒の種にどれだけの可能性が秘められているのか計り知れないのに、私達はあまりにも自分勝手な狭い価値観で、ものごとを処理するようになってしまった。

 

 教育産業を種子会社に置き換れば、今日の教育もF1時代といえる。志望校に入るまでの効率を競い、その人の人間性に関わることはなくなった。個性というバラつきを嫌い、画一化、マスプロが主流を占める。人間としての関わりを忘れた教育環境の中で育てられた者が、将来その子孫に何を伝えることができるのだろうか、まさしく一代限りである。人育てを教育の柱としなくてはならない。それは代から代へと伝えられて行くもの、一握の人間に責せられて行くものでは決してない。

 

 日本で育ったネパールのトマト、夢がある。この夢がまた美味にする。教育にも夢がほしい。