チャペルニュースの中に見る私 Part3

  [1983年3月~1984年1月]

 


 

 

<痛み経ること> 

立教学院チャペルニュース 1983325日発行より転載

 

 日本聖公会の信徒の中には、いわゆる社会福祉の分野における先駆者が多い。我国最初の精薄児施設滝乃川学園を創設した、精神薄弱児の父・石井亮一。孤児救済に献身し、博愛社を創設した小橋勝之助、実之助兄弟。石井にしても小橋にしても、ウイリアムズ主教の感化を受けて受洗したことは注目される。また、盲人教育の草分け、岐阜訓盲院の創設者森巻耳、そして日本救癩の母と呼ばれているハンナ・リデルなど、多くの信仰の先達がそれぞれの時代にあって、主の証し人として先駆的な役割を担っていった。

 

 そのような先駆者の一人に、沖縄救癩の父・青木恵哉がいる。自ら癩を病んでいた師は沖縄の病友への伝道師として、ハンナ・リデルより昭和二年に沖縄へ遣わされた。世界大恐慌の前夜の沖縄は、蘇鉄地獄と呼ばれるほど疲弊しきっていた。社会の最底辺に生きざるをえなかった病者は、青木自身が驚ろくほど悲惨なものであった。

 明治四〇年、旧癩予防法が制定され、全国各地に療養所がつくられていった。癩患者発生率全国一の沖縄は最も早い段階で療養所の建設が試みられたが、地元の激しい反対で全ての計画が潰されていった。海岸の洞窟などで生活せざるを得なかった病者たち、そのあまりもの悲惨さに、自らの手で療養所獲得のために立ち上がった師であった。

 自分達の村に汚れたものをもってくるヤマト・クンチャー(本土の癩病者)として多くの迫害をうけた師。「魚ならば海に潜りても活きん、鳥ならば空に舞上がりても逃れん、五尺の身体置きどころなし」、この句は当時の師の苦境をよく物語っている。そして苦節十年、師の命をかけた働きは、世界でたった一つの病者自らの手による療養所を誕生させたのであった。

 「痛み経て真珠となりし貝の春」、こんな辞世の句を残して、師はその証しの生涯を終え帰天された。信仰者として燃え尽きるような生涯であった。

 

 数年前、真珠の話を聞く機会を得た。阿古屋貝はそのままでは真珠という実を結ぶことはできない、「核入れ」が必要なのである。この核入れ作業というのは、外部から異物を入れることにより貝に傷をつけ、傷ついた貝は自らその傷を癒すために特殊な粘液を出すとのこと。すなわち、自らが受けた傷の癒しの業が、あの輝く真珠となるとのことであった。それは私にとって感動的な話であった。

 青木師はこの事実に呼応するかのように、「痛み経て」と語っている。自らが負う痛みを、痛みとして痛み抜くことの大切さを、その生涯の証しを通して語っているように思えてならない。

 

 この春、二七名の学生達と共に、師がその基を築かれた愛楽園で、参加者各々の人間的成長を求めての学びの一時をもった。毎日行われる居室訪問、そこには自己の現実と今なお闘い続けている人々がいる。参加者の一人は、次のように記している。

 「偶然を引き受け、過去を引き受けて、この人達は生きている。“この手は生きる為にこうなったのです”と言って、指のない両手を目の前に突き出してみせたAさん。ない指を嘆くのではなく、むしろ、事実を承認して、それならではの生き方を求めつつ生きている。自らの現実を引き受けて生きる彼らの言葉には、強さのような、微笑みの様なものが感じられた。」

 苦しみを避けるのではなく、苦しみとして苦しみ抜くこと。そこに輝く世界があることを、聖書は主の復活を前にしたこの季節に教えているように私は思う。

 

  


 

 

<「先立って在るもの」への問い -カトマンドウの街で思ったこと->

立教学院チャペルニュース 1984125日発行より転載

 

 


 1984年、立教創立百十周年の年明けをネパールで迎えた。

 緑豊かなバンコックを後に三時間、世界最高峰のエベレストが右後方に姿を消すと機体は機首を降げ、カトマンドウ空港に着陸する。窓から見える大地は異様なまでに赤茶け、緑をすっかり失った砂漠のような光景である。

 ヒマラヤの山々で知られる国ネパール、その首都カトマンドウは、インド、チベット、中国を結ぶ、文化・交易の重要な中継地として古くから栄えてきた。三世紀ごろという想像もつかない時代に造られたバタンやバドガオンなどの古都。レンガ造りの寺院や家々など昔そのままの空間に人々は昔のままのように生活している。「悠久」という言葉が相応しい。二千年の歴史を刻んだレンガの一つ一つが、私たちに優しく語りかけてくる。

 

 そんなカトマンドウの街で、多くの荷役人夫を目にする。汚れで黒びかりする衣服に裸足の彼らが黙々と荷を運ぶ。迷路のような小路では、6070kgもの荷を、ナムロ(運搬用の縄)一本で背負いながら運んでいる。他方、大路では木製の三輪車に荷を満載し、数人で必死に押している。ある時など、荷に頭まで押しつけ、歯をくいしばりながら、坂道を一寸刻みに押し上げていた。そんな彼らを、通行の邪魔だからどけと言わんばかりに、自動車がクラクションを激しく鳴らしながら走り抜けていった。残酷な光景だった。自動車は日本の二倍、ガソリン1リッター百五十円、人夫一日の賃金と大差がない彼地では、人間を使う方がまだまだ安いのである。

 

 「なぜ牛車を使わないのだろうか」、ネパールでは牛車は重要な運搬手段であるが、カトマンドウでは見かけない。ヒンドウ教を国教とするネパール、首都カトマンドウの守護神は最高神のシヴァーであり、その乗りものが雄牛である。牛は聖なるもの、カトマンドウ盆地内ではその使役は一切禁じられていることを知って初めて納得した。田おこし等、広く牛力にたよるもの全てが人力で行われているという。過日、ジャングルへ行く途中に乗った牛車、御者が激しく牛にムチをあてていた光景とがあわさり、同じ国内でのことなのにと、私には興味深く感じられた。国土の大半を山で覆われた生活条件の厳しい国ネパール、そして人々の生活を幾重にも規定する宗教的戒律。生活の中に生きている戒律に初めて触れ、そこから生まれてくる現実を垣間見た時、「だから宗教は・・・・・・」という、現代人の声が聞こえてくるようだった。

 神の使いである牛、それを大切にすることは人間を守り、神との関係を調節するという禁忌が、一つの戒律となったのであろうが、労働面では人間に大きな負担を与えている。私は、彼らが因習に囚われているとは思わない。労働の厳しさよりも、牛を大切にすることによって心に平安が与えられているのであれば、それはそれで良いことなのだから。

 

 しかし、宗教的教義にしろ、戒律にしろ、大切なことは常にそれを解釈し続けて行くことではないだろうか。「昔からこうである」ということに埋もれ、何ら問うことなく、「すでに在るもの」との対話が中断すれば、我々は因習に囚われて行くことになろう。「先立って在るもの」を一つの極とし、それとの対話をもつところに新たな地平が拓かれて行くのではないだろうか。

 「立教にチャペルがある」、在ることの意味を常に問うて行く、「先立って在る」こととの対話の中から、これからの立教の歩むべき道が示されて行くのではないだろうか。