ネパールへ

 

 ~岩村昇ドクターの人誑し名人と一食献金


 

 

<岩村ドクターという人>

    

 私は「誑す(たらす)とか、誑し込む」とかといった言葉は好きではない。しかし適当な言葉が見つからない。「騙す(だます)」といえばもっと悪くなる。岩村昇ドクターは良い意味での人誑しの名人だった。ドクターにうまく乗せられて嫌な思いをした人は一人もいなく、万人が誑し込まれて心より感謝している偉大にして不思議な魅力をもったメディカルドクターだった。

 

1960年初頭から約18年間、ドクターは日本キリスト教海外医療協力会(JOCS)よりネパールへ結核対策の医師として派遣された。私たちも子どものころ、「使用済み切手○枚で一人の結核予防薬のBCG...」というキャンペーンに賛同し、せっせと切手集めをした。

 

1979年、そんな雲の上のような偉いドクターをお招きし、講演会を企画した。

その時代、大学での講演料は1万、3万、5万円の3ランクと記憶しているが、5万円は超特別、いつも1万円クラスか3万円クラスかでもめていた。「我が大学で講演できるなんて名誉と思いなさい」という殿様目線だった。岩村ドクターを1万円で来てもらったか3万円だったかはもう記憶にないが、とにかく申し訳ないような内容であったことは確かだった。

 

「東京へ出たついでなら」という条件で快く引き受けて下さったドクター、しかし「ただほど高いものはない」という格言通り、ドクターのとんでもないスケールの話にまるめ込まれてしまった。

「ネパールにパイロット・ファーム(試験農場)を造るからあなたも協力して下さい。牧師たるものこんな意義あることに二つ返事できなければ将来本物の牧師になれませんヨ」と涼しい顔しておっしゃった。岩村昇ドクターのあのお顔を見るとYesという返事しか出てこないのですから不思議な人、天才的な人誑しなのです。

  

 

<チトワン農業総合開発プロジェクト(チトワン計画)>

  

 岩村ドクターの18年間に亘るネパールでの医療活動は、「子どもに結核予防のBCGを注射したら結核になった。栄養不良で基本的体力がなかったからである」との報告が示す様に、苛酷な自然環境の中で厳しさを極め、人々の栄養状態は悲惨なものだった。ドクターはネパールを離れるにあたり同国の結核撲滅のためには生活水準の向上が必要であることを痛感され、生活改良のためには住民の95%が農民であるという国情から、農村の発展以外になく、農業技術改善、教育、保健等の農村の発展を総合的に担う「チトワン農業総合開発プロジェクト(チトワン計画)」を考案された。

 

ネパールでの長年の経験から、住民の健康的な生活は住民みずからが創り出すべきもので、決して高所から諭すような方法では成功しないという信念に基づき、ネパールの草の根の人々を主役とし、彼らの自立を日本人である我々が側面から手伝うという考えに立って構想が進められた。

 

そんなある時、ドクターは私に一つの<詩>を教えて下さった。何かの会議に出席した際、アフリカのある人から学んだものであって、その詩によって自分の眼が開かれたといっておられた。そして、この<詩>をあなたなりに解釈して「チトワン計画」をすすめて下さいとおっしゃった。それはこのような<詩>だった。その後この<詩>は何をするにしても私の心の中心に座り、私の導き役、目付け役となった。

 

Go to the people

 

Go to the people

Live among them

Learn from them

Love them

 

But of the best leaders

When their task is accomplished

Their work is done

The people all remark

"We have done it ourselves"

 

草の根の民のところへ出かけていきなさい

そして、彼らの中に住み

彼らから学び

彼らを愛しなさい

 

しかし、心しなければいけないことは

本当の指導者というものは

仕事が完成し、その役割が終わった時

その土地の人々をしてこう云わせるものだ

”この仕事は、俺らが俺らの力でやったんだ”と

(作者不詳、大郷私訳)

 

「本当の指導者というものは影の人、裏方の人であること。いつまでも自分(自分達)が今ここに在るのは○○さんのおかげなのだと云わしめる指導者は二流三流の人、一流の指導者というものは草の根の人々をして『この仕事は俺らが俺らの力でやったんだ』といわしめるような人、静かに消えて行く人でなければ本物じゃないですよ」、30才過ぎの未だに青い私に熱く語られた。そういう視点で周囲を見渡せば何と自己宣伝ばかりのそれも誇大広告のリーダーと呼ばれる人の多いことか。この<詩>が私の「目付け役」ということはこのような理由によるのです。

 

岩村ドクターの口ぐせは「百年後」だった。「自分が生きている間に結果を見ようなんて思ってはダメ、そんな仕事はロクな仕事ではない。百年後に芽が出るような仕事をしなさい」、とにかくスケールが違っていた。

そんなドクターが女子学生にどう映っていたのか、当時ネパールの活動を手伝っていた湯浅貴子さん(現、鵜川)の文章力をお借りしたい。ドクターの新しい側面とそこに至るまでがよく描かれている。

 

 

 

<タイの花咲か爺に寄せて>

 

やはりちょうど今頃の季節、冬が始まり、クリスマスが遠くに見えてきた頃、私はあるお使いに出かけたことがあります。「佐藤寛君をネパールへの会」の座談会に出席される岩村昇先生を会場までご案内するように――というお使いです。

喜んでお引き受けしたものの私は先生のお顔を知りません。先生ももちろん私をご存知ありません。待ち合わせ場所は、人でごった返す東京駅構内です。はたと困った私に事務局長の大郷先生がヒントを下さいました。

「背は高くなくややがっしりしていて、眼鏡をかけているかもしれないし、はすしているかもしれない。ひげが生えてるよ。白くてふさふさして・・・・もう剃ってしまったかもしれないな。まあ、会えばわかるよ。」

細かい特徴は曖昧なまま、会えばわかるということはきっと普通の人ではないに違いない。とにかくそれだけが目印だ――と思いながら出かけました。

東京駅に着いた時、待ち合わせの時間の10分程前でしたが、すでにそこは適齢の男性がいっぱいでした。サアーット見渡したところピンと来る人はいません。しかし、岩村先生は誰が迎えに来るかご存知ないのですから、私から先生を見つけねばなりません。もしいらしていたらお待たせすることになってしまう・・・・。そこで、直感にたよらず、一人一人検分してみることにしました。

「中肉中背。ひげ無し。背広がピッタリ似合ってるからお勤めでしょう。」

「がっしりたくましい。ラフな眼鏡。眼光鋭くネパールでもどこでも行きそうだけれど、いま一つ余裕がなさそうな雰囲気。」

「小柄。眼鏡あり。思慮深げなお顔。でも世間に疲れているみたい。」

皆さんどこか違う匂いばかり。

そうこうしているうちに、いきなり改札口から花咲か爺がまっすぐに歩いてきたのです。そのお顔を見た途端、「会えばわかるよ」という言葉が心の中でじゅうっと溶け、おだやかな瞳、真白で豊かなおひげ、童話の世界にもう何度も登場していそうなその微笑みが、なぜだが私に向かってまっすぐに歩いて来るのです。

本当はお尋ねしなくてもよかったのです。ただ、とっさにもっと嬉しくなりたくてつい声が出ました。

「岩村先生でいらっしゃいますか?」

この、少々俗世間離れなさったような花咲か爺の笑顔が、どういう人生を通して作られてきたのか、私は大変不思議に思いました。人の顔は己れが作るそうですがとても人間が鍛練して作られたとは思えないその純粋で大らかな笑顔にすっかり魅了されてしまったのです。

先生は現在タイのスラムで活動なさっていますが、日本を離れる前に、半生記を出版されました。「あなたの心の光を下さい」(佼成出版社)という本です。先生の笑顔と、その笑顔を支えてきたものをここでほんの少しでも皆さんにお伝えする為に、この本から先生のお話を二、三頂くことにします。

 

先生は幼少期を経済的に余裕のある家の長男として育ちました。大人しく目だたない子だったそうです。家はさなぎ工場と呼ばれる、廃物さなぎの加工工場で、いつも4,5人の人を雇っていました。その中に金さんという朝鮮から勉強に来た人がいたそうです。この金さんとの出会いが、「宇宙船地球号」への想いの土壌となったのです。

 

  食事も金さんと一緒でした。ところが、さなぎの腐敗したようなその匂いは蝿を呼ぶのです。食事の時、うっかりしていると、ご飯の上に真っ黒にたかった蝿が1匹、2匹と口の中に入ってしまいます。後年、ネパールの山村でお百姓さんの家族と一緒に食事した際、私はやはりおびただしい数の蝿を手で追いながら、ネパール語の楽しい談笑の中にありました。そんな時私はふと、金さんを交えた工場の若い衆が蝿を追いながら威勢よく語らっていた故郷の食卓を思い出したものです。(一緒に働いて一つの食卓で一緒に食べる。不便でいかにも不潔な環境にあっても、豊かで偽りのない交わり・・・・。自分の子ども時代も大人になった今も、住む場所が日本であってもネパールでも、自分の志のふるさとは、そのように身体を使って働く人たちとの交わりにあるのだ)

 私のこの思いは、金さんとの交わりによって培われた簡単な言葉では表現できない私の“草の根文化”に根ざしているのかも知れません。

 ある晩の食事で、若い衆の一人が私の父に意見を具申しました。

「旦那さん、今度から外交はわしにやらせてくだせえ。金さんには内勤を。なぜって、このままでは金さんが・・・・」

  悲しいことですが、世間の風潮では、朝鮮の人は日本人よりも一段下に見られていました。外交先で馬鹿にされ、いじめられる金さんを内勤に回してやってほしいという日本人仲間の思いやりから出た意見です。しかし、父はそれを許しませんでした。

「金、くじけては駄目だぞ」

金さんは黙って肯いていました。父は、金さんが外でどんな扱いを受けているかも、金さんの仕事を手伝って一緒にいる私が仲間はずれにされていることも、ちゃんと知っていたのです。その翌朝、母は私を金さんのリヤカーに乗せて幼稚園に送り出してくれました。あのさなぎの匂いが染みついた臭いリヤカーです。私は何だか、とても嬉しくなりました。

 

 長男として鷹揚に育った岩村先生にも、1匹のセミの命を救いたくて、当時の先生にはほとんどなかったような剣幕で友達から奪い取ったことがあるそうです。

 人の性格は生まれつきのものが強いと言います。作ってゆくものではなく、全くの偶然――父と母の結婚から始まる――に従って、そこに様々な出来事が加わり固まってゆくのでしょう。人が生涯を通して出会う出来事は、星の数ほどあるのですが、運命を左右するような事というのは振り返れる時期にきて初めて語ることができるのかもしれません。岩村先生にとって被爆体験は今まで語られることのないものでした。今回の「あなたの心の光をください」で先生は正面から触れられています。

 

 私はこれまで古傷にさわるのは辛くて、また人に話せば必ずその晩は悪夢に悩まされることが続き、あえて自分が被爆者であることを公言しませんでした。被爆者は原爆の影響が、子どもや孫に遺伝するのではないかと恐れます。そのために結婚を諦めたり、子どもをつくらなかった人たちも少なくありません。火の中で助けを求めていたわが子や親を見捨てて逃げねばならなかったことを悔いて、今でも自分自身を責めつつ暗い思いの中に沈んでいる人がたくさんおられます。さらにすべての身寄りを一瞬のうちに失った人は、長い孤独に耐え続け、働き口も少ないために貧しい生活を強いられ、歳をとってから病に倒れ、深刻に悩んでいる人も多いのです。「原爆病は移る」と嫌われた人、少し働いただけですぐに疲れて仕事を休むので、「ブラブラ病」といわれた人もいます。これらの人びとは、あの時を思い出すのが怖くて辛くて、くやしくて、その精神的な苦痛で多くの被爆者はあまり表だって原爆反対の運動はしないものです。それができる人は、本当に勇気のある人です。私もほんの一時、運動に参加したことがありましたが、私には勇気が足りませんでした。精神的な苦痛は私の口を再び閉ざしました。

 

原爆にまつわる先生の傷はおそらく一生涯癒えるものではないでしょう。今でも原爆症の再発に苦しむ先生が、そのマイナスをプラスへ変えてゆこうとする力、自分が負った傷を痛むままに打ちひしがれるのではなく、次に他人の為に何かをする力に昇華していくという力に満ちていらっしゃったことに深く心を打たれます。そして、同じように被爆された人々の中にどれほど多くの岩村昇がいたことでしょう。

 

 過去と現在と未来と。これらをつなげていく力を持つ人を、今私達は本当に必要としているのだと思います。先が見えない時代だからこそ、今しておかねかればならないことの重さがずっしりと私達の肩にかかっているようです。

 

 岩村先生の微笑みの後ろには、何十年もさかのぼって出会ってきた多くの人々の姿があります。そして、今植えた楠の苗が立派に育つ頃のセブ島の人々の姿があります。時間の流れを超え、地球上の距離を越えて、全ての人と共に生きようとする時、人は本当に無心になるのかもしれません。

 今年ももうすぐクリスマスを迎えます。日本の花咲か爺は、サンタクロースに変身していることでしょう。微笑みを分けて歩く岩村先生の姿を思い浮かべて下さい。そして、一人でも多くの人々の顔に――手をつなぎ合うその両方の顔に――微笑みの灯がともりますように。あなたと共にお祈りしたいと思います。

 

(湯浅 貴子)

 

 

<チトワン計画と一食献金>

 

 ネパールという国は、北は中国、南はインド、その両大国にはさまれた東西約800km、南北約150200 kmの小国である。

 私たちの農場があったチトワンあたりが南北では一番狭くて約150km、北の中国国境近くにはマナスル(8,156m)、そして南のインド国境のチトワン、具体的に私たちが「子どもから大人までのネパールの旅」の際、訪ねるチトワン国立自然公園内にある博物館、その小さな建物に「標高80m」という看板が取り付けられている。南北150kmの中に約8,000mの高低差がある国、それがネパールという国なのです。それはどういうことなのか読者の皆さん想像してみて下さい。

 私が現在住んでいる所は岐阜県高山市、ここから150kmといえば岐阜市三田洞にある岐阜県庁あたり、車で約2時間の距離です。その間に8,000mの高低差があるということはどういうことになるのでしょうか。

 

 1980年初めてネパールを訪ねた時、私は一枚の「ネパール国土全図」を買い求めた。左端に記されていたインデックスを見て驚いた。Highway(ハイウェー)といってもいまだに日本の田舎道のような状態ですが、それにならんで「foot path」(小道)という表示があった。人が歩ける小道が国土全図の中に記されているのです。なんという国でしょうか。150kmで標高差8,000mということはそういうことなのです。人が歩けるような道など数えるほどしかないのです。驚きでした。

 私たちの旅でもポカラ(標高800900m)という街からアンナプルナサウスが間近に見えるガンドルン(標高約2,000m)という村まで車と徒歩で移動します。ポカラの街は植生が沖縄と似ていてブーゲンビリアやハイビスカスが咲き、バナナが実っているのに、ガンドルン村では3月末でも雪が舞う時があるのです。南北に一日移動すれば季節が23つ変わるのです。

 

 私たちが訪ねる山の村ガンドルンでは稲が育っていた。ネパールでは標高2,000mまで稲の栽培が可能とのこと、それから上は蕎麦やイモ、人が住んでいるのは4,2004,300mまでという。険しい山岳地帯での食糧増産はどのように工夫しても期待薄、ネパールの食糧庫はインド国境のタライ平原であり、チトワン地区はその一角である。

 しかしチトワン地区に限っていえば戦前までこの地区はマラリヤが蔓延していて原住民のタルー族を別として人間を寄せつけなかった。しかし、戦後アメリカがマラリヤを撲滅し、ネパール政府は山岳民族等の移住を促進し、食糧の増産に努めていった。

 

 「ネパールにも日本でいう盆と正月のようなものがあって年に一度のその時はどんなに遠くても出身地の村に帰るんだヨ」、ドクターは村人のその習慣を利用して一計を案じた。「ないない尽しのネパール、高価な機械や道具、肥料などが必要な農業はダメ。一工夫してこれなら俺たちでできるという農業、日本の戦前のレベルの農業が今のネパールに必要なのだ。この『一工夫の農業』、年に一度は村へ帰るわけだからよい手みやげになって、ネパール全土に広がるヨ」、それがチトワン地区にパイロットファーム(実験農場)を設けることになったドクターのねらいだった。ドクターは中々の策士でもあった。

 

 

<資金の集め方 - 一食献金>

 

 それにしてもこの活動に参加するには年額500万円、5年間で2,500万円もの大金が必要だった。そんな大金をどうやって調達できるというのだろうか。しかしドクターはいつものニコニコ顔、「心配しなくてもいい。神様が与えて下さいますよ」と涼しい顔。そしてドクターが私に語った活動資金調達方法は「一食献金」という、私など思いもつかない方法だった。

 

 「アジア、アフリカ等途上国の問題は飢えです。腹一杯食べてその余りを寄付するなんて、いい仕事はできません。飢えるということはどんなことなのか、自らも少しは身体で感じないとネ。それに現在の日本では健康のためにもなりますしネ」とこれまた涼しい顔。

「一食献金」というのは単純明快な仕組み。週に一度一食を抜き、その分を寄付するという内容だった。一食を抜くことで小さな飢えを経験することは、途上国の人々が直面している「飢え」という問題をささやかではあるが共有することになり、彼らの問題をより身近かなものとして考えて行けるのではないかという願いもあった。

 

 このアピールは多くの人々の間に共感を生み、年間500万円の活動費はアレヨアレヨという間に集まった。ちなみに我家では毎週金曜日の昼食は抜きでその分250円、1ヶ月1,000円、1年間12千円を献げることになった。

 このように岩村昇ドクターはいろんな意味において知恵者だった。そしてその知恵はアジアの人々の痛みに徹底的に寄り添う姿勢から生まれてきたものであったから、人を動かす大きな力を有していた。「徒手空拳」でものごとを始めようとする人に大きな知恵と勇気を与える人だった。

 

 

<ネパールで思ったこと>

 

○「私たちもまた旅をするから」

19801月、初めてネパールを訪れた時だった。チトワンの農場に10日ほど滞在した後、アンナプルナ山群の登山口の街ポカラに行き、バスと徒歩でマチャプチャレ(6,997m)に向かってトレッキングをした。間近で見るヒマラヤの山々は神々しく眩しかった。我々一行6人はヒマラヤの神々が住むというマチャプチャレに近づくことだけを考えて歩いた。

 

 夕方近くだった。10mほどの川に丸太2本をかけ渡した場所に出た。どうしてもその橋を渡らなければならなかった。川面からはそれなりの高さもあり、流れもそれなりに激しかった。とてもではないが立った状態で渡れるような代物ではなく、先頭は四つんばいになって渡り始めた。後方にいた私、その姿を記録に残そうとカメラをかまえた。そしてもっと絵になるアングルを求めて川中の石に左足をのせ、やや体重をその足に移した瞬間、身体は音もなくスーと流れの中にもって行かれた。その時のことは画面が静止した状態で、30数年経った今もはっきりと憶えている。悪魔がニヤリと笑ったような感じで、私のからだは声を出す間もなく静かにして一瞬のうちに激しい流れの中に引き込まれてしまった。

 

 見ため以上に激しい流れ、背も立たず一月の水は手を切るように冷たかった。私といえばリュックを背負いカメラ2台をたすきにがけにして、重い登山靴をはいていた。リュックが浮きぶくろになっていたが、それに水がまわってくれば死ぬと思った。1mほどの落差に3回ほど落ちた後、大きな澱みに出た。先の方からゴォーと水が落ちる音がきこえてきた。後で見たが3mほどの激しい落差だった。

 

「澱み」というところは川底から水がもちあがり、流れの脇には反流があることを川育ちの私は知っていた。体力の温存など考えている余裕なし、一か八かここで全力を出しきるしかないと判断し、その下からの水のもりあがりと反流を利用して私は全力で泳いだ。どうにか岸に手が届いたものの足が立たないためあがることもできず、それに流れでからだがもって行かれる。手を離せば一巻の終り、私は爪を立てて耐えた。そんな時、橋を渡りかけていた佐藤君が助けにきてくれ、ほんの一瞬で命拾いをした。爪という爪全てが生爪になっていた。

 

 全身ずぶ濡れ、一月の山の寒さは身にこたえた。しばらく歩いたら民家が一軒あった。事情を説明して一夜の宿を乞うた。外国人を泊めるなんて初めてのことなのだろう、戸惑っていた。母屋の側にある小さな納屋をあてがってくれた。初めて体験したネパールの民家、土間にワラをしきブルブルふるえながら一夜を過ごした。

 

 翌朝母屋で朝食の接待をうけた。炒り豆と炒りトウモロコシ(ポップコーン)、そして砂糖ではなく塩入りの紅茶だった。素朴な内容だったがそれが彼等にとって精一杯のもてなしだったことがよくわかった。歯が欠けそうなかたい炒り豆。残した分を昼食にもって行けと葉っぱに包んでくれた。

 

 全くのハプニングでこのようなかたちで世話になった私たち、お礼にできるものの持ちあわせは現金以外になかった。人の好意に対して現金で返すことに少しばかりの躊躇をおぼえながらお礼にといって失礼にならない程度の現金を差し出した。

 それを受け取った家の主が何かいったが、私はネパール語はわからない。この時が私の痛恨の極みなのだが、私は金額の不足を口にしたのかと思った。通訳の佐藤君の口から出たのは「私たちもまた旅をするから」という言葉だった。何という両者のこの落差、私は穴があったら入りたかった。金額に不足があるのかという私と、「自分たちも旅をするから旅の途上における難儀はよくわかるヨ。人生は旅、旅人同士はお互い様だヨ。お礼だなんて水くさいことをいうもんじゃないヨ。良い旅を続けなさいな」というおもいがこめられた言葉「私たちもまた旅をするから」。このあまりもの心の有り様のちがいに私は恥じ入るばかりだった。

「旅人をもてなしなさい」というイエスの教えを肌で感じた時であり、以来私の心のキー・ワードとなった。

 

○ネパールのトイレと自分との和解

 あれから30数年、今でこそネパールのトイレはそれなりに整備されてきたが、その当時は私には厳しいものがあった。いわゆる「トイレ」というところの汚さ、野原の天然自然トイレの方がどれだけありがたかったことか。その点、田舎の方にはいわゆる「トイレ」はあまりなく、天然自然トイレだったので助かった。しかし終わってからの処理、尻ぬぐいだけはどうしても現地の人のようにはできなかった。

 彼らといえば小さめの缶詰の空カンに水を入れ、花つみにでも出かけるかのように鼻歌まじりで茂みに消えて行く。私といえばかさばるトレペをはるばる日本から持参、素手での尻ぬぐいにはどうしても抵抗感ありでできなかった。

 

 そんなある日、「気持ちいいですよヨー」という言葉に誘われてフィンガー・ウォシュレットに挑戦してみた。彼らのように空カン1杯の水とはいかず、貴重な水をバケツに満しての挑戦だった。生まれて初めて自分の尻に自分の手で触れた私、身震いした。そして感動した。自分のからだの中で誰にも見られず、日陰のようなところでこのような仕事をしてくれているところがあったのだ。頭ではいやというほど理解していても、自らの手で触れることにより実感としてわかったことはこの時がはじめてだった。私は「ありがとう、ありがとう」といって幾度も幾度も手でなでた。何か深いところで自分と和解できたような安らいだ気持ちがした。以来、私はネパール方式の虜になってしまった。

 

 蛇足だが私は人によく健康法を聞かれる。私には特別の健康法というものはないが、もし在るとすれば毎朝トイレで自分のからだの各部門に「挨拶」することである。一つひとつ、その部分に手をあてて、昨日の行いを反省し今日もよろしく働いて下さいと挨拶するのです。「胃さん、昨日は食べ過ぎでゴメンナサイ、久しぶりにおいしいものを口にしてしまったので。どうぞ今日もよろしくお願いします」。「肝臓さん、昨日は飲みすぎてゴメンナサイ、遠来の友だったもので。今日もお客さんがあるので飲むと思いますがよろしくお願いします」と、まぁーこんな感じで手をあてて挨拶するのです。すると不思議にからだの各部分は活き活きとしてくるのです。

 

 私は自分と自分のからだとは「結婚関係(契約関係)」という考えをもっています。自分のからだの各部分すべてを含めて私(自分)なのですが、私はあえて自分と自分のからだを分けて考えます。(自分とは何かという難しい哲学的命題は残るのですが、それは横に置いておくことにして)

 私はいつもからだの各部分に手をあてて語りかけます。「私は自分の人生を通してこのようなことを表現したく願っています。どうかそのことのために私の命を今日も一日支えて下さい」、私はそう願い祈るのです。「あなたがそんな志をもって人生を考えているのならば、私はあなたのために働きましょう」と不摂生な日々の生活にもかかわらず今日も一日かいがいしく働いてくれているように思うのです。それが私とからだとの結婚関係説なのです。

 こんなことを思い考えるようになったのも、ネパールでのトイレのおかげと思っている。

 

 このように沖縄へ導かれて出会ったハンセン病を病んだ人々や、フィリピン、ネパールで出会った人々や出来事を通して、私の中にいつしか「あぶらむ構想」なるものが出来上がってきていた。

 岩村昇ドクターとの出会いを通して始められたネパールのプロジェクトが終わるころ、私の歩むべき次の道が用意されていた。

 チトワン計画を支えた「一食献金」を終えるにあたり、その最終報告書の中に現在のあぶらむの姿が語られていた。

 

一食献金を終えるにあたって

「佐藤寛君をネパールへの会」事務局長 大郷 博

  

  「ヤァー、元気そうだね」。「これが僕の農場です」。2年振りに会った佐藤君と私の開口一番だった。

 私自身身辺急を告げ、ネパールから帰ってからの彼のその後の生活を気にはしていながらも訪ねることが出来なかったが、過日卒業生の結婚式出席の折、彼の農場を訪ねることができた。2千坪の傾斜地に自作の立派な鶏舎を建て、養鶏で生計を営んでいる佐藤君を見て、どこか安堵した私だった。

 

  「佐藤寛君をネパールへ」を合言葉に、彼の働きを通して、岩村昇ドクター提唱の「チトワン農業総合開発計画」に参加してきた私たちでしたが、その5年の働きを終え、今こうして「最終報告書」を通してご協力下さいました皆様と6度目のクリスマスを迎えようとしております。

  実に多くの人々に支えられた日々でした。佐藤君自身の献身的な働き、それを支えて下さった皆様、両者の熱意を糧として頑張った事務局、ダメな事務局長にかわって、この最終報告書を完成してくれた事務局員のメンバーに感謝の気持ちで一杯です。そして、私たちの5年間の総括を、ご協力下さった皆様にお届けすることができますこと、これまた大きな恵みと感謝でございます。

 

  本会の残務整理も終えぬ本年3月、私は立教大学チャプレンの任期終了と共に、本務である日本聖公会の「司祭」という職務を休職にして、飛騨高山にある技能訓練校に入校しました。周囲の多くの人々に多大な迷惑をおかけすることを十分に承知しながらも、私はこのような決断をせずには居られませんでした。

 立教大学在職中の8年間、「時代を見る眼」を養うものとして私に与えられた素材は、次代を背負うべき若者たちと絶対的窮乏の中に必死に生きるアジアの人々の姿でした。それはまた、次の新たな働きを決定すべき素材でもありました。

 

 通俗的な言葉に、「転ばぬ先の杖」という言葉があります。私にはこの言葉は、今日の若者や日本社会の代名詞におもわれてなりません。就職シーズンにもなれば一人で4、5通の推薦状を求めてくる学生たち。一人の学生が商社、保険、製造メーカーと、ありとあらゆる企業を希望しています。どのような分野で働きたいのかと聞けば、「大きくて安定した企業であればどこでもよいのです」といった答が返ってきます。私はそのような人間をどのように推薦すればよいのでしょうか。

 

 また、大学内の学生健康保険の支払い先第一位は精神病院。年に数名の学生の自殺とも出会いました。一人一人の人生旅路、ただただ転ばないようにと、真に旅することに臆病になり、転ばぬ先の杖を太く確かなものとすることのみに窮々とし、経済的安定とひきかえに精神の自由を企業に売り渡していっている若者たち。そして一度転んでしまと再び起き上がる力を持ちあわせているとは思われません。そこから一体、どのような明日の社会が拓かれて行くというのでしょうか。

 他方、このように転ばぬようにの一念で窮々として生きる我々日本人に対して、アジアの多くの人々は、「転んだら起き上る」という単純な道理を身につけて生きています。「ネパール通信」を通して共に考えたように、アジアの人々は南北問題とよばれる構造の中で、我々の想像を絶する苦悩の中に日々を過ごしています。その生活たるや転ばぬ先の杖どころか、地べたに顔がめり込むほどたたきつけられ、糧を口にするどころか砂を口にする強烈な現実です。

 

 しかし、そのように我々から見れば二度と起き上がれそうにもない彼らが、転んでも転んでもその都度起き上り、淡々として生きている姿の中に、私は人生の真の旅人としての姿を見るように思い、深い感動をおぼえます。

  今日、アジアの多くの人々は、己が経済的利益しか求めない日本の援助を必要としてはいません。逆に旅する力の衰えたこの日本こそがアジアの人々の助けを必要としているのではないでしょうか。「転んだら再び起き上る」という道理を身につけた良き人生の旅人となるために、我々が彼らの生きざまを必要としている時代なのです。この現実確認は重要だと思います。

 

 私は明年より、「あぶらむの会」を設立し、人生旅路の良き旅人を育てる仕事を始めるよう決心しました。「あぶらむの会」、それは神のよびかけに従い、求め従うが故に多くのものを捨てて、未だ見ぬ地に向けて旅立ったアブラム・アブラハムの旅立ち前の名前に由来しています。

 

 私はこの「あぶらむの会」で次のような働きを計画しています。

1.Field Education Program――生きた場を通しての教育プログラムの実践。

これまで行ってきた、フィリピン・キャンプ、ネパール・キャンプ、沖縄キャンプなど、必死に生きる人々の生活を通して、若者たちを人生の良き旅人して育てるべき教育プログラム。

1.宿屋づくり

人生旅路の中で傷つき、疲れた人々が、新たな力を得て各自の現場に出て行くべき、場としての宿屋づくり。

1.同じ人生旅路の中で苦悩しているアジア・アフリカの人々の支援

具体的には、

○第二、第三の佐藤寛君の支援を通して

○現在行っているフィリピンの現地奨学金を通して

○フィールド・プログラムを通しての相互交流・相互理解

○草の根レベルの交換留学生

1.生活環境の見直し――消費から創造へ――

○植樹運動

○食糧問題――有機農業、自然食品

○創造の喜び――木工、陶芸、染色、紙他

1.製造販売――自活に向けて

 

 私はこれまで種々の活動に関わってきましたが、最近になってそれら全てが、「旅する力」という言葉に集約されるようになりました。「転ばぬ先の杖」も一つの生き方かもしれないが、「転んだら起きる」という道理を身につけた「旅する力」を養い育てることこそが教育の急務に思えてなりません。そして、そこにこそ「アジアの人々との出会い」――互いが互いに真に必要としあう関係が生まれてくるものと思います。

 こんな私に人は、それにしても何故「木工」をとたずねます。木のもつ限りない人間の魂を癒す力もさることながら、私は私たちの生活の中に「百年」という時間を定着させたいのです。百年という時間が失われると、自分の生ある時のみを、自分が責任ある時だけどうにかと、連綿とした時の流れが分断され、きわめて無責任な行為しか生まれません。その意味では百年という時間は未来に対して私たちの責任を明確にします。

 

 百年単位で成長する「木」はこのことを私たちによく教えてくれます。今日私たちがうける恵みは先達の苦労によるもの、自分が生きている間にはその結果を見ることが出来ないことを「木」は教えてくれます。それ故に、私たちもまた孫子の代への備えとして今日を生きるのです。私は「あぶらむの会」の働きを通して、時代に対する私たちの責任を追い求めて行きたく願っています。

 「佐藤寛君をネパールへの会」を通して、直接・間接にお互いのおもいを交しあうことが出来ました皆様との出会いに感謝します。この報告書をもってお別れさせていただきます。ありがとうございました。

 いつの日かまた、新たな「あぶらむの会」の活動を通して交わることができれば大き

な喜びでございます。

 

 皆様のお一人一人の上に神の平安がありますよう、心からお祈りいたします。

 

 

198611

 

 これは25年前の文章です。“変りばえがない”といえばそれまでですが、私はその変りばえのなさを誇りとしています。何故ならこれらの言葉や気づきは私がこの手で触れ、この目で見た世界からつむがれてきた言葉ですから変えることができないのです。また変えることがあってはならないのです。人生、百年後を目指し一途に行きたく願っています。

 

つづく