韓国へ

 

 ~どうしても訪れることが出来なかった遠い近国


199710月、私は初めて隣国韓国を訪ねた。(訪ねることができるようになったといった方が自分の気持ちに副う) その年の6月、当時日本聖公会中部教区司祭(現教区主教)渋沢一郎師が大韓聖公会ソウル教区の司祭達4,5人を連れあぶらむにやって来た。会議、会議の連続で皆げっそりと疲れた顔をしていたが、飛騨地の空気が身心にあったのかみるみる元気になった。団長の金在烈神父が「あなたは韓国を訪れたことがありますか」と訊ねた。否いといったら「意外」といった感じでその理由を問うた。「過去の出来事を考え思うと、私には未だ訪ねることが出来ない。」と答えた。

「私が招待します。是非訪ねてきて下さい。」 思い立ったら吉日、その場で米の収穫が終わって一段落した10月中旬ごろに訪ねることを約束した。

 

第一話 歓迎、歓迎、急性胃炎

初めての韓国訪問は死ぬほどに食べることになった食事のことしか覚えていない。私のホストとなってくれた金在烈神父は大韓聖公会だけでなく、広く韓国キリスト教会の中で尊敬されている人だった。70年代に始まった韓国民主化闘争の中で、先頭に立ち、公立大学を追放された人々の受け皿になったりと大きな働きをなしてこられた事を通訳の人に聞いて初めて知った。行く先々、金神父の顔に泥を塗るようなことがあってはならないと、最大級のもてなしを受けた。

あれからもう15年余も経つというのに、メモなどなくても日々の出来事、特に食べもののことは鮮明に覚えている。

 

金浦空港に金神父自ら出迎えに来てくれていた。「今夜は主教主催の歓迎夕食会です」と。「ちょっと待って下さい。私は『休職』というかたちで組織としての教会から離れている身、そのようなおおげさな教区主教招待の夕食会などこまります。」と言ったら、「ここは韓国ソウル教区です。東京教区の事情など関係ありません。あなたは私たちにとって大切な人なのですから。」と全く取り合ってくれなかった。

 

初対面の教区主教との夕食。金神父主導で無理失理に引き出されたのであろう、「何で俺まで」という感じで私との会話はぎこちないものだった。こうして明洞のソウルでも有名な精進料理レストランでの一次会が終わった。「サアー、ボスが帰った。これからが本番、大郷はどこへ行きたいか?」と金神父の本音。私はすかさず「屋台がよい」と言った。「そんなところでよいのか?」と言いながら、シブシブ屋台へ。日本と異なり新鮮なたくさんの食材が並んでいた。「何がよいか?」と言うのでおいしそうなエビがあったので、「それがよい」と言った。すると金神父、「これは新鮮じゃないからダメ」という。「明日江華島へ行くので、そこで漁れたてのおいしいエビをご馳走するから今日は待て」と言った。そう言ったとたんに、屋台のおかみさん激怒!「あんた、私の店にケチつけて何なのヨ!」韓国語のわからない私でも、ストレートに理解できる怒りよう。通訳の李さんが、「この人は教会の神父であって、何も悪気があって言ったことではない」と言ってもおかみさんの怒りは納まらない。「神父であろうとなかろうと、私の店にケチをつけるやつは許せない!」と言わんばかりの激しさ。私たちは店に着いたばかりなのに、スゴスゴと引き上げることになった。

 

2日目、私たちは韓国聖公会発祥の地、江華島を訪ねた。「今日の昼は天然のうなぎ料理を予定しているのだが、うなぎは好きか?」と訊ねられた。うなぎは私の大好物、「それはよかった」と、金神父ニコニコ。

 

初めて食べる韓式のうなぎ料理。

<食べ方>炭火の入ったジンギスカン鍋のようなものが登場し、素焼きされた身厚の天然ウナギが山のように出てくる。あたたまったやつをコチュジャン(唐辛子ミソ)につけて食べる。

 

同伴者は通訳に洪曼姫さんと教区婦人会の文さん。二人のご婦人は私の皿が空になると、「ハイハイ」とウナギの補給。金神父は側でマイペース。これが日式のタレで焼いたウナギならばうまいだろうなあーと思いながらも、すすめられるままに食べた。12~3切れでもう満腹、日本の特上ウナギでも5~6切れ。「もっと食べなさい」とせっかくの好意。無理失理口に押し込んだら、空いた皿にまたおかわり。まるで岩手のワンコソバのようだった。22~3切れほど食べたら、脂汗が出てきてもうダウン。やっとお許しが出たようで、二人のご婦人はそれ以上はすすめなかった。

 

昼の悪夢のようなウナギが半分も消化していないというのに、もう夕食の時間。「夕食は昨日約束したエビですよ。」と金神父ニコニコ。教会の信徒さんで車エビの養殖をしているという人の店だった。

<食べ方>ガスコンロの上に透明ガラスのフタ付の鍋登場。鍋の中には沢山の塩。塩が熱くやけたところへ活きエビをいれてフタをする。鍋の中でとび踊るエビ、エビ、エビ。すっかり赤くなったら食べごろ。

 

塩味がきいていて美味しかった。昼のウナギが未消化というのに、すすめられるままに食べた、食べた、40数尾食べてダウンした。

 

3日目。ソウルから一緒だった三人と別れ、新たな人に案内されて水原、独立記念館のある天安へ向かった。その日は民泊だった。その日は祝日にあたり、天安へ向かう高速道路は大渋滞。夕方にはお世話になるお宅に着く予定だったが、着いたのが深夜0時近かった。そんな遅い時間にもかかわらず、沢山の人が待っていてくれた。大テーブルに、目一杯用意された料理の数々。深夜の大宴会がはじまった。宴は明け方4時ごろまで続いた。

 

翌朝7時過ぎ、家人は済まなさそうに私を起こした。「今日の予定を考えると、疲れているだろうが起きてください。」と優しくいった。

身支度を済ませ座敷に出ると、昨夜の宴会後3時間余りというのにその大テーブルに新しい料理がびっしりと並んでいた。どう考えても徹夜で準備したに違いない。胸が一杯になった。しかしそこからが大変。「全部にハシをつけなさい」と言う。お客がハシをつけないと、家人が手をつけられないからだという。ウナギやエビのゲップが未だ出るというのに、明け方までの大宴会。そして早々にこの大朝食。ありがたくて涙がでそうなのだが、ここまでくると拷問に近くなってきた。イエイエそんな罰当たりのようなことは言ってはいけません。その日も朝から必死に食べました。

 

その家で朝起きた時、枕元にビニールに入った新品のタオル、歯ブラシ、そしてパンツとシャツの下着が置かれていた。私のために用意してくれたのだろうが何も言われておらず、私は手をつけなかった。帰り際、「これはあなたのために用意したもの。手をつけないのなら荷物になるだろうが、もって帰ってください。」と手渡してくれた。私は涙が出て仕方なかった。

 

私たちはお客を家に迎える時、果たしてそこまでするだろうか?習慣の違いといってしまえばそれまでだが、心の底の底から他者(ひと)を迎え容れる彼らの姿に、私は言葉がなかった。そしてそんな心を宿す韓国の人々を私たちは蔑み差別し、虐げてきたのである。「人生旅路の旅人の宿」その主を務めている者として、人を迎え入れるということはどのようなことなのかを心底教えられたひと時だった。

 

これは余談になるが、このような日々が6日間の滞在中最後まで続いた。そしてもう一つ、海辺の町でよくおいしそうなスルメが売られていた。日本では高級品、韓国でも高価なのだろうと思って最初は目をつむっていたが、ある日通訳の人に値段を尋ねてみた。「あなたはあんなスルメが好きなのですか?」「ハイ、私の大好物です」と言ってしまったのが最後、どの人からもどの人からも、おみやげとしていただくものはみなスルメばかり。大きな袋にぎっちり詰めて4袋。タオルで結んで両の肩にヤジキタ。入国の時に税関で、「あなたは韓国へスルメの買い出しに行ってきたのですか?」と言われた。

教訓その1 韓国では、「私、それが好き」というと大変なことになるということを身をもって知った。

 

帰国後、お世話になった方々から、立派な日本語の手紙が届いた。大切なことは人と人との確かな心の交流であることを改めて教えられた。

 

(以下、いただいた手紙を転載)

 

「手紙1」

    1997.11.5

大郷博先生                 

主の御名を讃美いたします。

お手紙とお寫眞ありがとうございました。主人公は先生でしたのに、私達だけ撮ったような気がして申し訳ございません。お家族の団欒なお寫眞は実にお幸福に見へまして知らずほほえみました。韓国へおいでの際は何も充分におもてなしも出来ず、色々となごりおしく思って居ります。

今からは度々おいでなさいますように、又両国の青少年camp等にはお子様達も参加なさればお互いを理解することもやすくなることと信じて居ります。

Seoulの秋もふけて来て、きれいな色に変った木の葉も落ちかけて冬を知らして居ります。すぐ又X-masと新年がおいかけて来るでしょう。

うつくしいアブラムの家の周りの景色を想像して見ます。是非一度お訪ねしたいと思います。

先生がお帰りになさった後10月9日は中部教区の信徒様達と司祭達がおいでになり又たのもしいmeetingを持ちました。

来年は青少年campは韓国で行われるはずですが今は具体的な会議は持って居らないようです。

山の中の冬はもっと長いでしょうが何時も皆様お元気でお過ごしなさいますように。

主の愛がいつもご一緒にありますようにお祈りいたします。

      洪曼姫

 

この洪さんとは今日まで親しくさせてもらっている。ソウルに行けば姉のようにして私を優しく迎えてくれる。ありがたい。

 

「手紙2」

                大郷博先生様

主の平安を御祈り致します。

写真同封した御親切なお手紙有難く拝見させて頂きました。御無事で帰られたこと何よりでございます。

先般韓国を御訪問下さった時は大したお構いも出来ずお別れしたこと残念に思っておりますが、大きな学びの一時であったと御感想を述べておられました。とても嬉しかったんです。

お話の通り、歴史とか民族とか戦争とか愛するということの根源は意味深長で仲々その真髄は解し難いものがありますね。

またどうぞ機会をみて御出で下さい。私達のこんな関係が民間外交でいいではありませんか。国家間の政策問題を別にして宗教的に人間的に親密の度を加えて行けばやがては永遠の平和が来るんじゃないでしょうか? 私達も貴地を訪問したく計画して居ります。お逢い出来る日を楽しみに。

どうぞ御体に御気をつけなさってお暮しください。   

敬具

1997.11.14

           韓国で  朴焌洪

 

 

教訓その2

どこかの市長が南京大虐殺事件を否定して波紋を呼んでいる。その理由として、「自分の父親が現地で大切にされた。そんなおぞましい事件があったなら、そんなに大切にされることはない。」と。その理由、ちょっとお粗末すぎる。

 

私は初めて訪れた韓国で大切にしていただいた。金在烈神父の後ろ盾があったからといっても、それを差し引いても大切にしてもらった。だから歴史の中で韓国、朝鮮人への理不尽な出来事はなかったということになるのか。民族間の中でたとえどんなおぞましいことがあったにしても、大切な事は大切、大切にすべき人は大切にすべき、韓国で出会った人々は私の手の届かないような大人(たいじん)だった。ものごとを一つ一つ吟味し、区別して、決して十把一絡げにして人を遇するようなことはなかった。朴さんの手紙にもそのことがよく表れている。

私はまだ中国は行ったことがないが、韓国の人は人間的に奥の深い人達だった。

 

 

第二話 韓国一周鉄馬の旅

 

●私とオートバイ

私の子どものころのあこがれは西部劇のカーボーイだった。

たき火にあたり野宿するシーンなら真似ができると毛布一枚で寝て寒い思いをした。馬での旅なんて遠い遠いあこがれでしかない。でも現代の馬、鉄馬なら身近にある。いつしか鉄馬での旅へと夢がふくらんでいった。

私が中学生のころ、我家の荷物運搬は自転車で引く「リヤカー」だった。デパートへの納品などはもっぱら私の仕事、からだのきつさよりも自動車にまじってリヤカーを引くことのかっこ悪さの方が苦痛だった。次に登場してきたのがオートバイ、からだはうんと楽になったがオートバイで引くリヤカーはもっとかっこ悪かった。4歳年上の兄が家業の見習いで家にいなくなった時、そのオートバイの運転は私の役割だった。60歳過ぎの父は運転できず、そのため私は親公認の「無免許運転」で家を手伝った。無免許運転で家庭裁判所送致が2度、警察署での始末書は数知れず、「無免許」という漢字が書けなかった私に、「字も書けないのに乗っているのか」といった老お巡りさんの言葉を今もはっきりと憶えている。

私もそろそろ「前期高齢者」と分類される年になった。「年金がたまっているよ」と女房、「何に使おうかなぁー」と私。「何いってんのよ、それは葬式費用でしょ」との一言に私の脳線がプッチンと切れた。「そんな後ろ向きの金はいらない」と私は「ボケ防止」を兼ねてそれでオートバイを始めることにした。「年金バイク」の誕生である。そしてこの初夏、現代の馬アイアン・ホースにまたがり私は卒業生の加倉井君と二人で韓国一周の旅に出かけた。

 

●韓国ってこんなに近かったのだ

530日午後8時、私たちの国際フェリーは釜山に向け下関を出航した。船内は日本人はまばら、韓国人パワーに圧倒されながら風呂に入り夕食を済ませ、少し眠ったかなぁーと思ったらガラガラと錨をおろす音で目が覚める。午前3時、船は釜山に着き沖待ちをしていた。遠いと思っていた隣国韓国まで7時間あまり。ちなみに福岡博多からの高速船なら片道2時間40分、料金は往復で1万円とあったのには驚いた。もっと遠い国だと思っていたのだが、地理的にはすぐ手の届くところにある国だったのだ。

宮崎県での口蹄疫真最中ということもあり、車輛の汚れには神経をとがらせていた。オートバイ組は手荷物検査など厳しいときいていたが、なんと入国審査室に私たちを出迎えにきていたシスター(修道女)が入ってきていた。「この人は日本のシンプニー(牧師さんだよ)」という一言で荷物はフリーパス。何よりも一般人の立ち入りが厳しく制限されているところに入ってこれるということに驚いた。

韓国では宗教者は尊敬され大切にされていることを、その後も数々の場面で知った。私は何もやましいことはなかったが、隅々まで検査されることのわずらわしさがなくなっただけで安堵した。シスター様々、気分の良い韓国第一歩となった。

 

●釜山(プサン)からソウルへ

言葉もわからず道もわからないままの韓国一周鉄馬の旅、私たちを出迎えに来ていたシスターや釜山教区の牧師、そして僧侶の法明さん達と10日間の日程でのコース取りを相談した。お互いこれで大丈夫なのかと心配だったに違いない。なるべく海沿いを走ることに決め、多島海の入り口 馬山(マサン)まで私たちを先導してくれた。

別れた後はいよいよ私たち二人だけの旅、不安ではあったが反面これほどの解放感はなかった。それこそ足の向くまま気の向くまま、大きな目標とする町はあるもののその間は全くのフリーである。おいしそうな食堂があれば腹を満たし、暗くなれば宿を探す。不安の中にも最高の解放感を味わわせてもらった。韓国南部は農繁期の真最中だった。麦やニンニクの収穫の真盛り、側で田植え、人が大地にしっかりと根ざして生きている様がビンビンと伝わってきた。わたしたちはまず「朝鮮の役」の際、豊臣秀吉の軍が最初に上陸した莞島(ワンドウ)、天童よしみの“海が割れるのよー”で有名になった珍島(ジンドウ)を目指した。ワンドウには高さ20mはあろうかと思われる救国の将軍 李 舜臣(イ・スンシン)の巨大な像が遥か日本をにらみつけるようにそそり立っていた。猜疑心の強かった秀吉、兵士の働きを見定めるために殺した朝鮮軍兵士の耳を切り落とし塩漬けにして京都まで運ばせたという話を思い出した。心なしか韓国の人々の視線が厳しく感じられた。

珍島には“モーセの奇跡、海割れの地”と英語の案内があった。年に一度3月の大潮の時に海が開け、対岸の島まで地続きとなって数万人の人々が渡るという。その光景写真が展示されていた。しかしそれ以外の時はただ海に浮かぶ小島でしかなかった。その光景を想像するだけでよしとしたいものだ。

私はどうしても木浦(モッポ)という町を通りたかった。昔、天気図をつけていた時、韓国を代表するのがこのモッポだった。たったそれだけのことなのだが、私の中ではこの町が一番親しみやすいものとなっていた。木浦の次が例の光州事件のあった町クワンジュである。 事件関係者の霊にお参りしようと思ったがあまりにも大きな街、私たちの能力ではその場所を探し出すことは無理、迷子になるのが関の山だった。

韓国の道路整備は世界でもトップクラスと思った。オートバイは高速道路通行禁止である。走れるのは一般道だけ。その一般国道が日本の高速道路なんか目じゃないほど立派に整備されており広いところは片側5車線もあった。現在も北朝鮮とは休戦中の韓国、いざ有事という時には飛行機の発着場にもなると聞くが、いずれにしても道路の立派さには目を見張らされた。

そしてまた道路標識が完璧であった。道もわからずハングル文字も読めない私たちが大きな迷いもなく一周できたのはこの整備された道路標識にあった。旅における道しるべの大切さを改めて強く実感させられた。

 

●ソウルの街で

天安(チョナン)にある独立記念館を訪ね、韓国と日本の間の不幸な歴史を再認識した後、この旅最大の難関ソウル市内に向かった。ソウル市内は交通量といいスピードといい、割り込みの激しさといいはんぱではなかった。私が東京へ出てきた東京オリンピックの時のようだった。そのような中、道もわからずウロウロしながら走るということは危険きわまりなかった。韓国の友人、知人がいろいろとサポートしてくれた。

道案内の先導者の後ろにつくと、割り込みの激しい中で、その車を見失わないようにとその車のナンバーしか視野に入らなくなってしまった。私たちを先導してくれたオーさんの車輛ナンバーは4438、私の目は点になりこの4438の数字以外何も目に入らなかった。自分で道を探し求めていた時は全ての景色が鮮明に今も脳裏に焼きついているのに、ソウルの景色はこの車輛ナンバーだけである。確かにその車の後をついて行けば目的地までは担保される。ありがたいといえばこんなありがたい事はない。後につき従って行くだけで特別何もしなくてもよいのだから。しかし、終わってみればソウル市内の景色は何も残っていない。これって現代社会そのものを物語っているのではないだろうか。先導車を見失わないようにと必死になって点だけ見ている私たち。自分で道を探し求め、見出していく力があればもっと周囲の景色を楽しめる。そして、私たちを取り囲む景色はもっと広く、美しく、多様性に富んでいることに気づく。人生は4438だけではない、もっと自分の足で旅しなければならないことを強く教えられた一時だった。

 

●ソウルから東海へ、そして38度線

韓国は東西200~300km、南北600~700km、一般国道の法定速度は80kmだから、ただ走るだけであれば4~5時間もあれば横断してしまう。ソウルを朝出発した私たち、お昼にはもうそこは日本海(韓国の人はこの海をニホン海とは呼ばず東海(トンヘ)と呼ぶ)、寒流のせいか6月というのに肌寒かった。草束(ソクチョ)は大きな漁村、そこで世界一おいしい刺身をご馳走したいと、さくら道250kmを完走したオーさんが私たちを待ち受けていた。出てきたのは大きなドンブリに山盛りされたヒラメ、これで二人前という。高級魚ヒラメは薄造りで食べるものと思っている私たちなのに、マグロのようにブツ切りのような造りになっている。かんでいるうちに魚の臭みがでてきてしまうのにはおいしさも半減。彼らはこのブツ切にコチュジャン(からし味噌)をかけて食べる。食べても食べてもドンブリの底からヒラメが出てくる。腹一杯、胸一杯、ニオイ一杯、最後は拷問に近くなってきた。(オーさんゴメンナサイ)

夜はオーさんのなじみの民宿で、漁師から直接買った大ダコを食べる。食べても食べてもタコ。韓国の人はどうして単品物を沢山食べるのだろうか不思議に思った。私はお礼に持参していたラッパのマウスピースで「アリラン」を吹いた。その家のオヤジさん大感激、焼酎の勢いも加わり、その夜は韓日大歌合戦となった。こんな草の根のよっぱらい交流もいいものと思った。

朝になって驚いた。その辺一体の海岸線はどこまでも果てしなく続く鉄条網で海と陸が遮断されていた。北のスパイの潜入を防ぐためだった。4~kmごとに検問体制のしかれた浜への出入り口があるという。自分の家の前浜まで出るのに一大仕事、そこには無限の隔たりがあった。北と南を隔てる38度線、国連監視の非武装地帯へはオートバイの乗り入れは出来ないことは知っていたが、行けるところまで行ってみることにした(乗用車はOK)。海岸線には果てしなく続く鉄条網、道路にはいたるところ人工のトンネルや重さ8~10トンはあろうかと思われる巨大なコンクリートブロックが両側に積まれていた。これらのすべてに爆薬が仕掛けられており、北からの侵攻があった時、道路を遮断するのである。38度線近くの検問所で通行を止められた。兵士はとっても親切で、せっかく日本から訪ねてきたのにゴメンナサイといったニュアンスの言葉で私たちを帰した。せめて記念写真でもとねだったがそれも禁止された。

その日、私たちは一気に慶州(キョンジュ)まで450kmを南下することにした。南北の境界線38度線から東海市まで約300km、国道7号線は海岸近くを走っているが、その間は切れることのない例の鉄条網だった。東海市から慶州までは新しくできた道となり、海岸から山の中に入ったから鉄条網の所在は確認できなかった。この鉄条網はどこまで続くのだろうか、そしていつまで続くのだろうか。私にはこの旅で一番心に残る光景だった。

総走行距離3478km、韓国内走行距離2090km、風を感じ、温度を感じ、ニオイを感じ、一つ一つ道を探し求めながら韓国の人々の生活の一場面を肌で触れる鉄馬の旅だった。

 

つづく